1999年を語る




さて1999年も年末が近づいてきた。ミレニアムだなんだと騒がしいが、ああいうのは遠くにありて思うもの。99年が5年先、10年先という時点ならば、一体どうなるのだろうというワクワク感もあるだろうが、実際にきてしまうと何のことはない。普通の年末だ。おまけに今年は妙に温かくて、師走気分がでてこない。なんか拍子抜けというのが本音ではないだろうか。ともあれ年末進行につき、コンテンツの更新も本年は今回でおしまいということになる。そこで今回は、今年を振り返ってみての雑感を述べてみたい。

ここ数年常に言い続けてきたことだが、少なくとも日本の国民ははっきり二つに分かれてきていた。それが、誰の目にも明らかになってきたのが今年の大きな特徴だろう。旧態依然としたパラダイムから抜けられないヒト。あっさりと新しいパラダイムを自家薬籠中のモノとしているヒト。勝ち組・負け組もそうだし、最近の株価の二極化もそうだ。この変化自体はバブル期あたりから粛々と起こり続けていたし、ある日突然に起こったモノではない。しかし、その動きがある大きさになってきたときと、まさに世紀末と重なったがゆえに顕在化したと言うべきなのだろうか。

最近面白いのは、ぼくが主張し続けてきた論調に近いトーン&マナーを持った発言が、かなりの頻度で、それも書籍や雑誌といったメインストリームな論壇で見られるようになってきたことだ。それはまた、このような「階級分化」が既知のモノとして認めざるを得ないモノになってきたことを示しているのだろう。政治の55年体制はがたがたになりながらも、最後の老醜を曝している。その一方で、「知の55年体制」も遂に崩壊がはじまったということだろう。「建て前の社会的良識」にこだわり続けたのが知の55年体制なら、「自分としての本音」を力強く語るのがパラダイムシフトだ。

そもそもそういう「知のエリート」の構造というのは、中身がない人間が偉そうにイバるためのシステムでしかない。本当に実質があるなら、何も権威なんかいらない。中身で勝負すればいいからだ。アーチストでも賞や肩書きを強調するヤツは、基本的に作品で勝負できないヤツだ。そう考えてみれば、これもやはり時代の流れということだ。これからは実質がストレートに評価される時代になる。そういう時代でも通用する人達の突き上げに、中身がないワリに偉そうにしていた人達がたじたじとしているというだけのことかもしれない。

あと、これも世紀末のパラダイムシフトの陰に隠れて見えにくくなってはいるが、確実に世代交代が起こっていることも見逃せない。まず確実にいえるのは、勝ち組の企業の中での世代交代だ。旧来のやり方でビジネスができなくなってくると共に、一気に現場の決定権を持つ層の世代交代が進んでいる。具体的には団塊の世代から、昭和30年以降に生まれた高度成長世代への交代だ。彼らは貧しさを知らない世代。物事のとらえかたが、それまでの日本人とは決定的に異なる。豊かな社会で自分に忠実に生きてきた世代が、日本をリードしてゆくようになる。これはけっこう大きい問題だ。

同時にティーン・ヤング層も、団塊ジュニアから高度成長世代二世に変化した。これは、親子とも基本的に変わらない環境で育った世代の出現ととらえることができる。今までの日本では、親と子は常に背負っているバックグラウンドが違う状況にあったことを考えれば、大きな変化だ。言い換えれば、これではじめて欧米のように文化が生まれる基盤ができてきたということもできる。これらの変化も長い目で見れば、これから起こるであろう大きな変化を準備する動きということもできるだろう。

1999年7月、恐怖の大王は降ってこなかったように見えるかもしれない。しかし、ほんとは降ってきていたのだ。人間に対する最後の審判はもう下っている。華やかな21世紀での活躍が期待されている、未来型の人類。20世紀と共に時代に取り残されてしまう、近代型の旧人類。この二つの人類の間の距離は、もはや人間とゴリラの差以上に開いてしまったかもしれない。形は似てるが別の生き物だ。そういう意味では、旧人類と烙印を押された人達には1999年はまさに終末の時だったはずだ。来年からは、もう取り合う最後の椅子自体が残っていないことを思い知るだろう。いや、それすら気付けないまま、新年を迎えるのかもしれない。もっとも、そのほうが彼らにとっては幸せなのだろうが。

(99/12/24)



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