クリエーティブ世代の義務





今30代半ば以上のヒトなら半ば常識だし、直感的に理解できると思うが、かつては、クリエーティブであることが、それこそ「カッコいい」条件だった。そうだったのは70年代、そして80年代のアタマぐらいまでだろうか。バブル期以降に育った世代は明らかに違う。要は創り出せる人間が一流、消費するだけの人間は二流という意識が、社会のコンセンサスだった。それを裏表の関係で、若者の間ではクリエーター指向、アーティスト指向というのが根強くあった。なんとかして作る側、送り出す側に回りたいというのが、当時の共通した願望だった。

もっともこれはこれで、手先だけで中身のない、似非クリエーター、自称アーティストを大量に生んでしまう結果となった。業界人ブームみたいのも同様の流れだろう。それはそれで弊害も大きかったのだが、それだけ社会的なステータスがあったということも確かだろう。これはちょうど、大学生にステータスがあった時代は、ニセ学生が社会的存在だったのと同じことだ。ある種の有名税だが、それだけクリエーティブな才能に社会的な存在感が認められていたことにつながる。

そういう世代からするとびっくりなのだが、今の若者は、消費することは好きでも、自分が創り出すことに関してはからっきし興味がない。クリエーティブな人間に対するあこがれがほとんどない。まあ、ファッションにしろメディアにしろ、エンターテイメントにしろ、どこかに作り出す人がいるとは思っているだろうが、意識の外側にあるようだ。多少の感謝の気持ちはあるだろうが、敬意はほとんど感じられない。それどころか、「クリエーターは自分達とは別人種」みたいなとらえかたをしている。

もちろん、こういう指向はアーティストやエンターテイメントだけにとどまらない。たとえばコンピュータソフトウェアでも、かつてはそれを自分で作り出せる人が一流、使うだけの人は二流という歴然たるヒエラルヒーがあった。これもまた、創る人が偉い人という、クリエーティブ指向の賜物である。余談だが、当時はプログラマ流のゲームの楽しみ方というのがあって、これが今となってはなつかしい。買ってくるなり、まずは逆アセンブル。どういうテクニックが使われているか、何で開発しているかを見切ることで、開発者の力量を見抜く。そしてアルゴリズムを読み切り、そのゲームの必勝パターンを考える。実際にゲームをプレイするのは、その必勝パターンが最適解であることを追証するプロセスに過ぎなかった。

当然、一般のヤング層にはクリエーティブ指向はない。これが事実なのだ。もちろん若者の中にもクリエーティブな人間はいるし、自分が作る側に回りたいと思っているヒトもいる。だが、若者の中でも一部のクリエーター指向の人達は、まるで「オタク」的なものとされて、差別されている。友達や仲間を捨て、まるで世捨て人のようにならなくては、クリエーターの道は目指せないのだ。当然、芸能界への指向性も、一芸に秀でたスター指向ではない。偶然テレビに出て、ちょっと勇名になれればいいという、等身大のタレント止まりの指向性しかないのは、今のタレントの実態をみればすぐわかるだろう。

もっといってしまえば、今の10代、20代といった若者層は、なにごとにつけアクティブではない。一部の評論家からは、「まったりした生活」指向などと呼ばれているが、連中は、はっきりいって人生自体に対し消極的なスタンスなのだ。当然、外部の刺激に対する反応も鈍い。「自分がここにいるから、自分なんだ」みたいな感じで、あえてアイデンティティーも求めない。自分の個性というものを余り明確には持っていないので、たしかに消費ターゲットとしては、おいしいかもしれないが、文化という意味ではつまらないヤツらだ。中年組の方が、よほどアクティブで、常に新しいものを生み出している。しかしどう考えても、若い方が元気も活力もないというのは、世代構造としてはゆゆしき問題だ。ヤバいのではないか。

ビジネスという面で割り切って考えれば、世代間競争で、オジさん、オバさんが圧倒的に有利なのは間違いない。付加価値の水源たり得るクリエーティビティーは、下の世代にはないのだから、当分独占的に自分のポジションを確保できる。いま30代後半から、40代後半の世代の立場を一言で表せばこうなる。これはこれで個人的にはおいしいし、悪くはないのだが、日本の将来を考えると、ちと寂しいものがある。下の若い世代は、何も生み出さず、ただ消費者としてわれわれの世代が生み出したものを使い捨てるだけ。このままでは、俺たちがいなくなったら、間違いなく日本は滅びるということだ。

ディジタル化、ネットワーク化の問題を議論するのもいいだろう。高齢化問題もいいだろう。問題といえば全てそれなりの問題だ。学力低下や理系差別も確かに問題だ。しかし日本の将来の一番の問題は、クリエーティブ指向の欠如、ここにあるのではないだろうか。この解決のためには少なくとも、クリエーティブ指向のある世代が、自分を表現すること、自分らしさをカタチにすることのすばらしさを見せない限り、彼ら彼女らは、そのまままったりした世界の中に沈み続けるだろう。

表現者として生きることの喜び、感激を、まず自らが体現し、それをもって自分達の子供の世代の共感を呼び起こす。それがその中間的な世代も揺り動かすこれができるのは、われわれの世代しかいない。さてここで重要なのは、本当に感激できるものは、マスプロではないという点だ。今の世の中には、マスプロの表現物が余りに氾濫している。これでは感激は得られないし、表現したいという欲望も起きない。自分の表現のためではなく、ビジネスとしてやっている表現活動ばかりでは、そりゃ若者の意欲も失せるというものだ。

人間の個性を考えれば、音楽でも小説でもアートでも、一つの作品に対し本当に心から深く共感できる人数は、数千、いって数万だろう。何十万、何百万というセールスは、広く浅く、ちょっとだけ感激するひとがたくさんいるということだ。そう考えてみれば、日本のロックがカウンターカルチャーだったころ、アルバムの市場規模はこんなものだったことに気付く。カウンターカルチャーというのは、心のかゆいところに手が届いてこそ成り立つ。そういう意味では、送り手と受け手の深い心の共鳴が成り立っていた幸せな時代だったといえるだろう。ビッグビジネスになったJ-POPでは望むべくもないが。

視点を変えれば、今進みつつあるディジタル化、ネットワーク化は、メディアの変化、特にそのコスト構造の変化をもたらしつつある。このコストの低下により、数千とか数万とかいった、このレベルのビジネスモデルは作りやすくなっている。地域かもしれないし、ネット上のヴァーチャルな仲間かもしれないし、そういうコミュニティーレベルで心を表現するアーティストが生まれ、スターが生まれる土壌は整ったのではないか。アメリカにはローカルスターがいる。そこからナショナルヒットも生まれるが、ローカルヒットは確実にその地域の人々の生活や心を表現している。ディジタルの時代だからこそ、このビジネスモデルを日本でも創り出せる。まさにわれわれの世代が率先して、本物の表現への道を開かなくてはならない。

(00/04/14)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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