コンテンツとしてのテレビ






かつてのニューメディアブームは死屍類類に終わり、その屍もすっかり白骨化して骸骨の森と化した昨今では、誰もメディア論など論じないし、見向きもしなくなった。まあ人間、痛い目にあえば学習するものなのかは思いがちだが、これは決して学んで振り向かなくなったのではない。話がややこしくなりすぎて、簡単に狼少年ができなくなったということでしかない。逆に、かつてのように将来の夢物語で狼少年ができるような余裕のある時代ではなく、戦略的に具体的な対応を考えざるを得ない時代となっている。そういう状況だからこそ、もう一度根底から問題を洗い直す必要があるだろう。その最たるものが「テレビとは何なのか」という問題だ。

かつての「通信・放送」という区切りは、誰の目にも時代遅れだ。通信・放送融合の時代、言い換えればインフラ・コンテンツ分離の時代に変わりつつあることを否定する人間はいないだろう。しかし、テレビ本質が何かをわかっていないと、この流れに対してどう対応を図ればいいか判断できない。実はいまの放送業界、放送行政は、こういう状況にあるのではないだろうか。よりグローバルな視点からすると、日本の放送界の戦略判断や、放送行政のかじ取りは、何かかたくなに守旧派に偏っているように見える。しかしそれは確信犯としての守旧派ではなく、何が何だかわからないがゆえの、過去の見えてる事例にすがるしかないという守旧派というのが実態だと思う。

テレビのキー局は、今の言葉で言えば委託放送事業者と、受託放送事業者の兼営、すなわち垂直統合に特徴がある。ビジネス構造という視点からすると、インフラ事業者としての受託事業者と、コンテンツ事業者としての委託事業者という、根本的に異なるレイヤーに属する事業を、一つの企業の中に納めている。これはインフラ・コンテンツ分離という時代の趨勢からすると、根本的に相容れない活断層を、自らの身の中に抱えていることになる。これでは中国古代の股裂きの刑だ。世の中のビジネスモデルが固まるとともに、じわじわと矛盾が身体中に拡がることになる。

このため、いつもいっていることではあるが、今のテレビ局、特にキー局の中は、営業・編成・制作という「コンテンツブロック」と、技術、管理、経営陣からなる「インフラブロック」と、利害の違う二つのブロックに分かれてしまっている。前者は視聴者の支持こそ全てだし、後者は免許こそ全てだ。そして、金を稼いでいるのは前者の論理なのだ。「コンテンツブロック」が関わるのは、スタジオワークからポストプロまで。その一方で後者はカンパケになったコンテンツをコスるところからしか関係がない。前者からすれば、インフラがどこであろうと、マスに流れてくれればビジネスモデルは完結する。

このように矛盾するビジネスモデルを、「テレビ局」という一つの企業体の中に包含している結果、起こっているゆゆしき問題がテレビとは何なのかというアイデンティティーの欠如だ。そしてそれが今いちばん問われているのが「テレビ的なコンテンツとは何か」ということではないだろうか。テレビ=インフラと考えれば、パッケージに対するリアルタイム放送コンテンツの全てが、テレビコンテンツということになる。テレビ=コンテンツと考えれば、リアルタイムでマスに送られるコンテンツのすべてではなく、その中で「パッケージでは成り立たないもの」がテレビコンテンツということになる。

つまり、そのキャリアが「オンライン・リアルタイム」か「パッケージ」かということより、コンテンツの性質がテレビ的かどうかが重要ということになる。理論的にはキャリア軸とコンテンツ軸のリアルタイム性、タイムフリー性で4象限のパターンが存在し得る。これを独立に考えることがこれからのテレビを考える上ではきわめて重要だ。テレビ的なコンテンツとは、あくまでもコンテンツの性質がリアルタイムでなくては意味がないということだ。

いいかえれば、既存のビデオパッケージで販売可能だったり、録画して何度もみることができるコンテンツはテレビ的ではない。もっと「エンターテイメント」的なコンテンツと言えるだろう。たとえば映画はテレビ放送でオンエア可能だし、それなりの視聴者をつかまえるが、本質はテレビ的ではない。だから、他のインフラとの競合が起きる。その一方でバラエティーやワイドショーはきわめてテレビ的だ。こんなものを録画して何度も見るヒトはいない。つまり、わざわざ見るコンテンツはテレビ的でなく、暇潰しに見るコンテンツこそテレビ的ということだ。

スポーツなどでは面白い現象が起きる。格闘技などは、パッケージ足り得る。野球やサッカーでも名勝負と呼ばれるものなら、パッケージでもニーズがある。しかしマラソンは、録画してみるヒトも、長距離関係者以外にはいないだろう。この辺にテレビの本質が見え隠れしている。一方インタラクティブメディアの登場により、パッケージであっても、中身を最新情報に差し替え、テレビ的なコンテンツとして見せることが可能になったことも、よりテレビとは何かを見えやすくしている。

こう考えてゆくと、テレビにとっての本当のキラーコンテンツとは何かも見えてくる。やはり、バカバカしいけど暇潰しになるもの。これである。何といわれようと、これさえあればテレビはなくなることはない。しかし、テレビコンテンツの本質を忘れて、パッケージコンテンツばかりを配信しようとすると、その先にはインフラ間の価格競争がまっているだけだ。変に豪華なもの、立派なものに目がくらんではいけない。テレビはテレビ。そのポジションさえ守れば、世の中どう変わろうと商売は成り立つ。人間の本質はそう変わらないし、みんな勤勉で勉強熱心なワケじゃない。怠惰な人には怠惰なコンテンツ。これがない社会じゃ、なんか寂しいと思いません。


(00/05/26)

(c)2000 FUJII Yoshihiko


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