これからの広告






このところ何回か、大衆の終焉について述べてきた。「幻想の平準化」のマヤカシが種明かしされてしまった以上、悪平等の大衆社会が今後とも続くとは考えられない。もちろん、このところ述べてきたように、自分が大衆であり、社会は平等であることを信じつづけたい人々がいなくなってしまうことはない。だが、彼ら、彼女らとて、決して実態としてのマジョリティーではなく、あくまでも相対化された指向の一つとしての「大衆」でしかない。これは文化という面では、マスの喪失、メジャーの喪失ということになるだろう。実際、高度成長期華やかな時期はさておき、20世紀も末となると「国民的云々」というレベルの「メジャー感」を持つものはなくなっていた。社会のタコ壷化が進むと、これは一層深刻になる。しかしこれは何も、俗に言われているように「マスメディアがなくなる」コトを意味するワケではない。

「マスメディア」とは、そもそも多くの人にとって暇つぶしのツールである。偉そうなことを言っても、「マスコンテンツ」の多くが「有料で金を払っても見たいコンテンツ」とはクロスしない以上、構造的にそうなのである。多くの人にとって、期待しないけどそこそこ楽しくヒマが潰れるコンテンツ。だからこそ、有料コンテンツより一桁も二桁も多いユーザーを獲得できるのである。さてここで問題になるのが、「マスメディア」の収入源である広告出稿が、今後どうなるかということだ。社会のタコ壷化が進むと、今までのような不特定多数をターゲットとしたマスマーケティングは難しくなり、もっとワントゥーワンなコミュニケーションが求められるという意見も聞かれる。果たしてそうなのだろうか。

確かに、表現モデルが「連呼型」というか、それ自体の中に「コンテンツとしてターゲットを吸引する力」を持っていないクリエーティブ作品であれば、いわゆる「本編」のもつターゲット吸引力を利用し、「そこに居合わせた人達」にメッセージを提示する以外、訴求力は持ち得ない。しかし、それは本来の広告クリエーティブの役割ではない。高度成長期のキャンペーンにおいては、そういう「イージーな作品」でも事足りたからこそ、それが主流になっていただけである。広告クリエーティブ作品も、コンテンツとして考えれば、それ自体の中に完結的かつ主体的にターゲットにアプローチし、メッセージを伝える機能はビルトインし得る。そうならば、そこまで含めて広告クリエーティブは可能性を持つ。

そもそも人間の意識構造というのはそんなにヤワじゃない。群集の雑踏の中でも、たとえば「自分の名前を呼ばれる」というように、強く潜在意識にアピールするメッセージが提示されれば、それに対しては強力に反応しうる。ということは、広告コミュニケーションにおいても、大切なのはその「潜在意識にアピールするメッセージ」を提示することであり、「ターゲットだけ集めた場を作る」コトではないはずだ。高級魚を取るために、底引き網で雑魚も高級魚も根こそぎすくい取ってしまってからより分ける手法がある。高級魚の部分で漁のコストが間尺にあえば、雑魚はいてもいなくても関係なくなる。もし「潜在意識にアピールするメッセージ」を込めたクリエーティブ作品を作ることができるならば、ターゲットを含むより大きな集団に対してそのメッセージを提示するだけで、作品自体がターゲットをより分け、訴求してくれることになる。

そうなれば、マスメディアは客寄せのための「本編」コンテンツも含めて、広告作品のための単なるヴィークルとなる。マスメディアのインフラ、コンテンツを合わせて、広告にとってはインフラ、いわばメタ・インフラとなるワケだ。広告にとってのメディア利用は、基本的にインフラとしての利用になる。いいかたを変えれば、前にも述べたことはあるが、オブジェクト指向のメディア利用になるということだ。これこそ、インターネット時代にふさわしい発想ではないか。通信にたとえれば、本編のターゲッティング力に依存する従来型の広告キャンペーンは、電話ネットワークのようなものであり、広告クリエーティブ自体にターゲッティング力を持たせる新時代の広告キャンペーンは、インターネット・プロトコルに基づくパケットネットワークのようなものである。

このような、コミュニケーションのパラダイムシフトは、一つには通信インフラの変化により、コミュニケーションインフラの利用コストが革命的に低下したこと。もう一つには、それに基づく情報の氾濫の中から、利用者の側が自己責任でコンテンツを選択する能力が高まったことに起因する。このような時代変化を前提とすると、広告作品を創り出すヒトたちに求められる能力も大きく変わる。それは、ターゲットの潜在意識を見極め、こういうパワーを持つクリエーティブを創りだせるかどうかだ。これがこれからのクリエーターに求められる資質となる。残念ながら、現状の広告クリエーターの多くがそれに対応できるとは思えない。しかし、広告をはじめとした広い意味でのコミュニケーション・コンテンツを作っている業界の中には、こういう資質を持った人材は充分にいると思われる。

これは、たとえば「蓄積型テレビ」にどう対応するか、という問題でも同様である。旧来型のクリエーティブしか念頭にない人は、どうやってCMをスキップさせないか、ということが問題になるとばかり、そうさせないことが大事だと真顔で主張している。しかし、そんなのは笑止千万だ。ターゲットの潜在意識にアピールするクリエーティブを創れる人なら、「蓄積型テレビ」ウェルカムである。要は、ターゲットが蓄積した広告作品を何度も見たくなるようなクリエーティブを創ればいいだけである。「蓄積型テレビ」はCMも飛ばせるが、本編も飛ばせるのである。メディアが単なるヴィークルであれば、本編こそ飛ばさせてしまえば良い。これを思いつかないような人間は、単なるメディア・バイヤーは勤まっても、エージェンシーの仕事はできないと言わざるを得ない。

そう考えてゆけば、結論は簡単だ。近代の産業社会が終焉し、新たなパラダイムに基づく情報社会が到来したことにより、いろいろな社会の変化が起こっている。そういう他の多くのパラダイム・シフトと同様、キチンと付加価値を生み出せている人間にとっては、広告の変化も恐れることはない。ヤバいのは、近代社会特有の社会構造にのっかって、安直な手練手管でズルをしてきた人だけである。マーケティング戦略だって、チャネル対策だって、コミュニケーション戦略だって、全部同じ。その分野において、自分に本質的な才能があるワケではないのに、調子よく「鷺を烏といい黒める」ことだけで金を稼いできた人達に天誅が下るだけである。たとえ、そういう人の方が多かったとしても、ちゃんと良い仕事をする能力のある人達はいる。価値を生み出さない「巨悪」をどう一掃するか。難儀だろうが、それを社会の構造改革の風をバックに実現することが、今求められている課題ということだろう。

(01/12/14)

(c)2001 FUJII Yoshihiko


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