これからのメディア






現状のインターネット上のコンテンツがどうのこうのという話はさておき、インターネットの普及とともにわかってきたこととして、「旧来のメディア論、特にインタラクティブ・メディアを語るときに使われてきた人間モデルは、極めて現実と適合しないものである」ということがある。能動的に情報にアクセスする動機のある人間は限られている。ましてや積極的に情報を発信する人間はもっと限られている。さらにその中で、人をひきつけるコンテンツを創りだせる人間は、ほんの一握りである。人はそういう彼らを天才という。はっきり言えば、そういうことだ。当り前といえば当り前のことではある。しかし、ここをキチンと見据えた論点を持つメディア論には、なぜかトンとお目にかかったことがない。

人をひきつけることのできるコンテンツを創りだせる人を、プロフェッショナルと呼ぶこととしよう。プロフェッショナルと観衆との階層構造は、どんなところにも存在する。実はこの関係は、コミュニケーション環境がインタラクティブになればなるほど顕在化する。これはパソコン通信の時代から言われてきたことだが、単なるBBSでも、人をひきつけられるコンテンツを作れる「書き手」が集っているところは、なぜか「観衆」が集まってくる。その結果、実際の書き手の数より、二桁も三桁多いアクセス量がカウントされることになる。送り手と受け手との間で、能力差があるからこそコンテンツがコンテンツたり得る。これは間違いなくコンテンツの本質である。

たとえば、比較的フラットだと思われる、趣味をベースとした専門誌の世界。クラシックカメラの雑誌でもいいし、ジオラマ模型の雑誌でもいいのだが、そういう狭い世界の中でも、誰もが「情報発信」できる構造にはなっていない。ここにも、やはりプロフェッショナルと観衆の階層構造が歴然と存在する。そしてそれは、必ずしもその趣味の世界での掘り下げ方の深さと一致するわけではない。クラシックカメラのコレクターとして圧倒的な物量を誇る人が、即、情報の発信者として一流というワケではない。もっとも、趣味の世界ではこの二つの能力を両立させている人が多いことも確かなのだが、完全に一致することはない。コンテンツを作れるかどうかと言うのは、やはり独立した能力なのである。

これがもっと強力に現れてくるのが、個人ホームページの世界だ。個人ホームページのコンテンツは、日記・雑文系を除くと、作者の趣味を反映したものが多い。まさに百花繚乱のありさまだが、その中でも一定の「読者」をつかんでいるWebと、ほとんどアクセスのないWebとがある。この違いをよく分析すると、それはポータルへの登録数の問題でも、内容の深さの問題でもないことがわかる。それはひとえに、作者の「ホームページ作成能力」の違いである。もちろん作成能力とは単純な能力ではなく、「テキストベースのコンテンツ作成能力」「グラフィックデザイン能力」「シカケ作りのアイディア創製力」等々、色々な要素が複合した能力である。

その全てではなくても、いくつかに飛びぬけた才能があり、それが発揮されているからこそ、面白いWebになっている。そうなれば、リピーターが多くなる。偶然やってきた人も、次からはリピーターになる。これが個人ホームページがヒットするための方程式だ。今までの垂直統合型のメディアでは、このような才能を持った人ばかりが集まってメディア企業を構築してきたため、「才能差」が社会的に問題になることは余りなかった。もっとも「業界内」ではそれなりに競争が激しく、その差はてきめんなモノであったことも事実だが。しかし、インフラとコンテンツが分離するとともに、インフラの伝送コストが下がり、「コンテンツ送り出しの敷居」が低くなったことで、改めてこの問題が顕在化してきた。

見方を変えれば、これは人間本来のあるべき姿に戻っただけということもできる。誰でもテレビカメラの前に立てばスターになれるわけではない。そんなことは業界人であれば百も承知である。しかし、誰でもテレビカメラの前に立てる状態にはないからこそ、多くの観衆はそこで思い違いをしていた。しかしマスメディアにはそんな魔力はない。もともと、その人間が持っていた能力を、増幅して見せるだけである。太古の昔から、歌舞音曲は神がとりついた「選ばれし者」だけがなせるワザであった。その才能が天賦に与えられたものと、それを与えられなかったものの間には、大きな溝がある。どんなメディアも技術も、この溝を埋めるものとはならない。

多くのメディア論のおかしいところは、この「才能の差」に目をつぶってしまい、全ての人間が「情報発信」に関してフラットであることを前提として議論を進めている点だ。コンピュータネットワークの議論であれば、全ての端末がインテリジェントで、ネットワークがステューピッドという状態を考えうるし、それは極めてエレガントな状態でもある。しかし、こと話が人間系に移った途端、末端にいる人間の能力差、インテリジェンスの差が問題となってくる。全ての人間が、情報の発信・受信ともにフルに可能な能力を持っているわけではない。これを前提にした議論、この情報能力の差をコンテンツ流通のエネルギー源としてとらえる議論ででなくては、現実的な構造を捉えるために意味のあるものとはならない。

それだけではない。数的に言えば、極めて発信能力が弱い、あるいは発信能力がほとんどない人間のほうがずっと多いのである。さらに言えば、そういう人間の中には、自分の目的意識を持って能動的に行動することさえ苦手な人達も多く含まれている。そういう人達は、いかにインフラがインタラクティブになろうと、インタラクティブなコミュニケーションを取る理由がない。送り手と受け手の間にある構造的な違いは、決して埋まることがない。その両者は人間類型が違うし、違う人間類型のクラスターが同居しているからこそ、そのクラスター間で「コンテンツ流通」がおこるのである。

違うタイプのクラスターが、ヒエラルヒカルに存在している状態は、情報リタラシーやディジタルディバイドの問題として解消されるものではない。これもやはり、キーワードは「多層化」なのである。クラスター間に位置エネルギーの差があるからこそ、怒涛のようなコンテンツの洪水が起こる。これは、インフラがフラットでローコストになればなるほど、激しく大きな流れとなる。この流れを見切れるものだけが、今後のコミュニケーションビジネスを語れる。21世紀に入って、コミュニケーションインフラが激変しつつある今こそ、人間のコミュニケーション能力の差による多層モデルをベースとしてコミュニケーションのカタチを論じることが必要とされているのだ。


(02/01/11)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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