多層化時代のコミュニケーション






これからの世の中を考えてゆくキーワードとして、「社会の多層化」ということが上げられる。多層化とは、あらゆる局面で生活者が、匿名的な集団である一様な「大衆」と、個別固有性を主張する多様な「個人」とに分かれてくることを意味する。ある人物自体が、「密教徒と顕教徒」ではないが、大衆か個人かどちらかに二分されてしまうのなら、これは「大衆」が絶対多数から相対多数になるだけの話である。それは単なる「階層化」に過ぎない。しかし「多層化」がややこしいのは、一人の人物の中でも、TPOに応じて「大衆」的な行動を取る場合と、「個人」的な行動を取る場合とにわかれる点である。

これをわかりやすくいえば、一人の人間が局面に応じて、極めて「ミーハー」的な行動を取る場合と、極めて「コダワリ」的な行動を取る場合とがあり、それをどう使い分けるかにパーソナリティーが表れるということである。もちろんこと日本においては、ほとんどの局面で「ミーハー」的な行動をする人間は数としては多いし、今後ともそれが相対的には多数を占めることも事実だろう。またその「純ミーハー」クラスターの主役が、団塊の世代と団塊Jr.によって占められることも間違いない。しかし、それが全てではないし、その行動様式が日本人全体の動きを決めることにはならない点には注意する必要がある。

少なくとも20世紀の日本は、意識上か意識下かはさておき、常に「超」大衆社会の実現を試行してきた。それを反映して、20世紀の日本ほど「大衆」だけを念頭に置いていればビジネスが成り立った社会も珍しいだろう。マスコミ・マスメディアしかり、マス・マーケティングしかり、そしてもちろん広告キャンペーンもそうである。悪しき戦後教育においては、戦前と戦後の断絶性が必要以上に強調される傾向がある。しかし、「超大衆社会・日本」という視点から見れば、そんなものは単なるミーハーなブームの違い程度のものである、大衆のメンタリティーからすれば、戦前の天皇崇拝も戦後のマッカーサー崇拝も、「顕教」信仰という意味では全く同じ構造である。

さてそういう日本、それも「大衆化」の行き着いた20世紀末の日本でも、よく見てゆくと「コミュニケーションのありかた」という視点では、常に二つのレベルがあったことを見て取れる。決して「大衆」一本にはなっていなかった。わかりやすい広告の例で見てみよう。たとえばマニアックな外国車の広告は、いかにバブルの時期といえども、マスキャンペーンになることはなかった。Cクラス、Eクラスで戦略的に大衆車化をすすめたメルセデスはテレビキャンペーンを張れても、ベントレーやランボルギーニは、広告が出てもマニアックな外車専門誌から外に出ることはない。そういう意味では媒体として、テレビキャンペーンと専門誌というのは両極である。

そういう視点で見てゆくと、いろいろなもので同様の例が見られる。たとえばパソコン広告の歴史的変化などは面白いだろう。80年代においては極めて専門的なパソコン趣味誌、それも純広というよりはパブリシティーや紹介記事がコミュニケーションの主力となっていた。それが80年代末のOAブームで、経済紙のようなビジネスマンターゲットの媒体を利用したマス・キャンペーンの対象になった。この時期までは、パソコンはあくまでも目的意識をもった人が使う「道具」であり、受動的で目的意識を持たない「大衆」向けの商品となりえない構造的問題があった。しかし90年代に入り、ウィンドウズブーム、インターネットブームが起こると、受身でも使える商品となり、完全に大衆向け逆Lキャンペーンの対象となったことは象徴的である。同じような例は、欧米のファッションブランドのキャンペーンにも見て取れる。

そういう意味では、これから社会の「多層化」が進んだからといって、ことマーケティングやコミュニケーションにおいては、我々が全く方法論を持たない構造が目の前に立ちはだかるということではない。過去においても現状においても、極めて趣味的な商品やサービスというものは存在する。ぼくが個人的に土地勘があるジャンルとしては、ヴィンテージギターやヴィンテージカメラ、鉄道模型といったものがそうだ。こういうジャンルでは、特に「オタク度」が高いものほど、本質的にコミュニケーションのカタチが違う。しかし、方法と中身を間違えないなら。「大衆」向けのキャンペーンとは比べ物にならないくらい、的確でリアクションの大きなコミュニケーションやマーケティングを行なうことができる。

バーストが欲しい人は、1000万円借金しても自己実現のためにそれを買う。興味のない人は、たとえ1億円遊び金があっても買わない。ライカ命の人なら、コンタックスの珍しいモデルを譲り受けたとしても、それを売って自分の欲しいライカのモデルの資金にするだろう。SLマニアの人なら、天賞堂の特定番号機のモデルなら20何万ポンと出すが、トミーの583系が出来のワリにいかに割安でも見向きもしない。そういうモノである。実は本質さえわかっていれば、よほどこちらの方が確実なマーケティングだ。そして、「多層化」とともに求められている方法論も、何のことはない、これと同じ「オタク・マーケティング」の手法なのである。しいていうなら、「大衆」にどっぷりひたってきた人には、そういう発想ができない、というだけのことでしかない。そういう意味では、この業界「風流な趣味人」は多いので、決して心配などしていない。ただ、適材適所というガラポンはドラスティックにやらなくてはと思うのだが.


(02/02/01)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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