甘えのギター





日本人に多い、「甘え・無責任」受動型の人々。彼等の問題は、「自分を持っていない」ところにある。日本では、自分を確立しないまま成長しても、その問題を問われることなく社会的に居場所を見つけることができるし、そのまま一生涯を終ることもできる。年功序列・終身雇用の時代なら、それでも企業に入ればそこそこの地位を得ることができたし、中にはトップに登りつめる人もいた。同じように、官僚や軍人も、官僚制度や階級制度など組織の仕組みだけは立派な分、当事者性のない「組織」に責任を押し付け、自分を持たないまま出世することができた。そういう仕組み自体が既得権である以上、既得権を守り利権化するモチベーションが日本社会の基調になったのもむべなるかな、である。

そういう人達が、問題を問われたのは海外に出たときだ。海外で、外国人と語る。キチンとコミュニケーションできるかどうかは、語学ではなく、コンテンツの問題だ。一人の人間として自分を確立し、自分の視点、自分の責任でモノを見て、考えて、発言できなければ、海外では一人前とは認められない。言葉はつたなくても、人間としてのコンテンツがしっかりしていれば、相手は必死に話を聞いてくれる。逆に、中身がなくて、言葉だけウマいのでは、かえって中身のなさがくっきりと浮き出るだけ。日本企業の海外駐在員はこういう人達が中心だっただけに、それをばらすまいと仲間内だけで固まっていたということだ。

これは何も、組織とか仕事とかいう、極めて社会性の高い局面でだけ見られる問題ではない。もっと個人がムキ出しになってもおかしくない状況でも、同じように「自分を持っていない」日本人の姿を目撃することができる。結局、自分と真摯に向き合い、自分を見つめる機会がないまま、「大人」と呼ばれる年齢になってしまってもそれで許されてしまうのが、日本社会の本質ということだろうか。ぼくが接点を多く持っているジャンルでいえば、たとえば音楽に関係した場面でも、あきれるほど「甘え・無責任」な人達に出会う。そして、そういう人達が主たる消費者として市場を支えているがゆえ、マーケット自体がそこに向かって最適化してしまっている。

その結果成り立っているのが、今の日本の楽器業界である。ぼくも楽器店、楽器メーカーにいろいろと苦言を呈することも多いが、考えてみれば悪いのはそういう供給者側ではなく客の方である。客が求める以上、それを提供しない限りビジネスが成り立たない。そうであれば、商売としてマーケットベースでやっている以上、楽器店や楽器メーカーが、いかに高い志を持っていたとしても、それを実現することはできない。自分が何で音楽をやるのか、自分がその楽器で何をしたいのか、それが曖昧では、自分にとってどういう楽器が必要なのか判断できるはずがない。

全く奏けない初心者が、これからはじめる際に「一生使えるなるべく良いギターが欲しい」からこそ誰かに相談すると言うのならまだわかる。ある程度奏けているつもりのヒトが、誰かに相談したり、情報に過剰に頼ったりするのは理解できない。ましてや、意味もなく情報や知識ばかり収集し、人間データベースなってしまうヤツも多い。こうなると、その知識をひけらかしたくなって、エラそうに講釈をたれるようになる。ちゃんと楽器を理解しているヒトからすれば噴飯モノなのだが、世の中にアタマでっかちの輩が多い分、これがそれなりにウケたりする。特にインターネットの世界では、こういう理屈だけの連中がけっこう多い。困ったものだ。

自分がその楽器で何を表現したいのか、それが明確であってはじめて、どういう楽器が欲しいのか、どういう楽器が自分にとって「良い楽器」なのかという、自分としての楽器の評価基準ははっきりする。これが曖昧では、楽器を選ぶときにも、基準を人に頼ったり、第三者的な情報に頼ったりせざるを得ない。その結果、無間地獄に陥ってしまう。ギターの場合カタログ上のスペックでは表現できない差異が実は重要なのだが、表面的なスペックに過剰にこだわってしまう。エレクトリック・ギターでは、付け替えやすく差が出そうにみえやすい、ピックアップを次から次へと取り替える。果ては誰かと同じ仕様の一本を探して買っては売りをくりかえす。等々。

実はいい楽器とは、自分の表現したいイメージについてこない楽器では困るが、本人にとってそれをクリアしてさえいれば何でもいいのだ。それは、世間一般の評判とは違う次元の話である。たとえば、世の中にはビザール・ギターというジャンルがある。いわゆる「銘器」の対極にあるキワモノギターだ。多くのギタリストにとっては、「使いにくい」ギターである。しかし、一般的な奏法でなく、オリジナリティーあふれる特殊なプレイスタイルを創造している、ライ・クーダーやデイヴィッド・リンドレーといった人達にとっては、このチープなエッジ感が可能性の宝庫になる。

その最低限の表現力をクリアしている楽器なら、それを使って自分のイメージ通り表現できないとしても、それは楽器のせいではない。その人のテクニックが足りないだけのことだ。だから、いい楽器かどうかの基準は、通常の場合に表現上要求される閾値を知っているヒトにとっては明解だ。それがクリアできればいい楽器、クリアできなければダメな楽器、というだけのこと。よく言われる、「ヌケのよさ」とか「リアの太さ」とかいった基準も、あくまでもこういう文脈での閾値を具体的にあらわしたものである。余談だが、試奏とはその閾値を見極めるものである。どういう試奏をしているかで、そのプレイヤーの音楽的実力までわかってしまうワケだ。

あくまでも楽器は手段である。伝えたいメッセージ、表現したいイメージこそ音楽である。ギターを奏くテクニックだけあっても、そのテクニックで表現したいモノがないのでは意味がない。それでは音楽にならない。「ヘタウマ」と呼ばれるように、テクニックがなくても、イメージやメッセージはあふれるほど豊かで、テクニックのつたなさを越えてほとばしるものが伝わってくるほうが、よほど音楽としては質が高い。ポイントはそこなのだ。そして、日本社会や日本人の弱点もそこなのだ。「甘え・無責任」から、「自立・自己責任」へ。その第一歩は、実はこういう個人的・趣味的な世界の方が作りやすいのかもしれない。

(02/07/12)

(c)2002 FUJII Yoshihiko


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