成長の呪縛






少なくとも20世紀の産業社会においては、「大きさ」こそ力であり、規模の拡大を実現する「成長」は常に正しく望ましいものとされてきた。原因と結果という視点でいえば、近代社会自体が、「成長は善である」ことを前提として形作られたものと考える方が正しいだろう。そういう意味では、成長は近代社会の公理であり、その範囲においては「成長主義」は、何ら否定されるものではない。いい悪いではなく、先人がそういう世の中を「選んだ」からだ。

しかし、忘れてはならないのが、「成長主義」がいかなる場合においても、社会の揺るぎ無い規範足り得るものではないという点である。成長を良しとするか悪しとするかは、相対的なものであり、どちらも成り立ちうる。西欧近代社会のような「成長主義」をベースにした社会を構築することもできるし、中世社会のような「均衡主義」をベースにした社会を構築することもできる。それは、その社会に生きる人々が、自らの意志として、主体的に選び得るものである。

その一方で、どういう「主義」を公理として採用するのが最適かという判断には、社会を取り巻く環境を考慮する必要がある。成長の余力が充分にあり、成長を図ることが、長期的視点からみても、「幸福の極大化」をもたらすのであれば、成長主義を取るのがふさわしいだろう。しかし、そうでない場合には、必ずしも成長主義がベストな選択肢とはならない。最適解を求めるには、常にこのような相対的な視点を持ち、代替戦略とのメリット・デメリットの分析を怠らないことが重要だ。

すでに21世紀に入り、20世紀的な近代社会を成り立たせてきた社会的背景は、近代社会を支えてきた先進諸国では、大きく変化した。1990年代以降、世界でも先進国を中心とした国々で起っている諸問題は、その多くが制度疲労を起こした近代社会的スキームが、もはや現実と適合せず、軋轢を起こしているために引き起こされたものだ。そういう意味では原点に戻り、近代のベースになっている「成長主義」自体の適合性から考え直すことが必要である。

世界には、今やっとテイク・オフ期を迎えた国々も存在する。そういう社会では、まだまだ「成長主義」の御威光は衰えてはいない。だからといって、「成長主義」が世界のどこでも通用するものはでない。この二面性をキッチリ押さえる必要がある。情報化が進み、社会ストックも蓄積した先進諸国では、これからは「均衡主義」をとる方が合理的である。というより、人類社会も、それが属する自然界も、基本的には「均衡主義」ベースであり、その方がより普遍性をもっている。

前から主張していることだが、「成長主義」を採用できた近代社会のほうが、人類史的には特異点なのだ。与えられたものをあるがままに受け入れ、その範囲の中でつつましく生きる。これが、元来の生物界のオキテだ。エネルギーや生産力を我が物とした人間が、思いあがって作ってしまったものが近代社会である。エコロジカルに地球環境との共生を考えるなら、そもそもこの思いあがった「成長主義」と決別することが必要になる。

人類が、すでに手に入れてしまったものを捨てろとはいわない。すでに人間は、充分な技術や情報、都市環境や社会インフラを手に入れている。今あるものを維持し継続していくだけで充分ではないか。これ以上のものが果たして本当に必要なのか。今以上の「幸福の極大化」のためには、成長して得られる、定量的・物質的なメリットではなく、現状に満足し、幸せを感じる気持を持つことのほうが重要なのだ。

現状を認識し、それに不満を持つのではなく、それで満足するつつましい気持を持つこと。それができなくては、いくら成長したところで、欲望と不満もそれ以上に成長するいたちごっこを繰り返すだけだ。欲を持たず、今のいいところを積極的に見つめることで、自分に与えられたモノだけで満足する。日本の社会が今なすべきことは、日本人が皆、こういう心境に達することだ。江戸時代までの日本は、極めて均衡型の社会だった。そこで暮していた人々の子孫なのだから、現状の社会環境を維持できるなら、充分満足できるはずではないか。



(05/01/28)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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