階級と文化






昨今、「21世紀の日本は、経済立国より文化立国を目指すべきだ」という主張に、よくお目にかかる。自分自身、そういう主張をしているので、もちろん総論としては異議を持つものではないが、本当に文化立国を目指すのならば、避けては通れない問題がある。それを無視して、文化立国を叫んでみても、全く無意味な自己矛盾でしかない。その問題とは、「文化はフラットで悪平等な大衆社会からは出てこない」ことである。

百人百様、ヒトの頭数だけ存在する「人間の営み」が、「文化」足る条件とは、それが「他にない唯一無二のモノ」であり、他の人間から評価され求められるだけの「付加価値」を生み出していることにある。ユニークネスと付加価値。モノであろうと、パフォーマンスであろうと、ある種の考えかただろうと、この両者が満たされなくては文化となはらない。そして、ユニークネスも付加価値も、「他人と同じ」でないからこそ生まれるモノだ。

すなわち、文化を生み出すには、天才的な人間の「才能」が必要なのだ。したがって、文化は努力でどうにかなるものではない。「秀才」では文化は創れない。天才が生み出した文化を、普及させたり、ビジネスにしたりするのは秀才の仕事だ。しかし、オリジネーターたり得ない。唯一、天才だけが文化を生み出せる。いや、ある人間が「文化を生み出せたこと」を持って、天才と称される、と言ったほうが正しいだろう。

しかし、現代日本のような「悪平等社会」は、人間の才能の差に見て見ぬフリをする。素直に、優れた人間の優れた所作やその成果を認め、称えることができない。これでは、天才は評価されないし、文化は生まれない。このように、悪平等社会である限り、そこには文化は育たないのだ。従って、文化立国を目指すなら、なによりもまず階級社会にならなくてはならない。人間の「差」を認める社会からしか、文化は生まれない。

その対極にあるのが、大衆社会である。そもそも大衆は、文化に対しては、単に消費するだけの存在だ。元来、天才の個人的な産物でしかなかったものを、「秀才」が大量複製してビジネス化し、マスに向かって売り付ける。これは、確かに文化の拡散プロセスではある。多くの人々にとって、自ら接する文化は、このプロセスを通ったあとのこと。それゆえ、大衆にとっては、この「拡散プロセス」自体が「文化」だと誤認しがちである。

本当の文化は、大量複製ではなく、そのオリジナル作品の中にしかない。しかし、クリエイターが文化を込めた「作品」を生み出すプロセスは、一般からはブラックボックスの中にある。したがって、この誤認は、ある意味しかたがないコトとも言える。もっとも、そのプロセスを脇で見る機会に恵まれたとしても、本当の付加価値を生み出すアクティビティーは、クリエイターのアタマの中で完結しているので、多くのヒトにとっては、認識できないものではあるのだが。。

そういう意味では、ヨーロッパで多くの文化が生まれた理由は、階級社会だったからだ。たとえば芸術の分野でいえば、19世紀以前に生み出された「作品」は、今も人類文化のスタンダードとして生き残っているものが多い。20世紀になって、「作品」の数は桁外れに増大した。しかし、それはほとんど、大衆が消費するための商業作品であった。したがって、かえって文化として残るものは減ってしまった。

この事実をみても、いかに文化というものが、大衆と相性が悪いかがわかるだろう。近代に入るともっと悪いことに、「作品」の形をとって、「秀才」が制作のプロセス自体を大量複製のプロセスとしてしまう事例も増えてきた。作曲やデザインでの「パクり」である。大衆社会である以上、これらは「大衆が支持する」「大衆の需要がある」ということを錦の御旗に、正しいコトとされてしまうのだ。

この社会的メカニズムを温存したままで、いくら文化を標榜しても、それは無意味である。もちろん、大衆社会をぶち壊してしまえばいい、というものでもない。文化を育てるのなら、文化を生み出すようなハイブロウな階級を、まず育てる必要があるということだ。そういう意味では、大衆は大衆のままでけっこう。それとは違う人たちが、大衆とは関わらずに自分たちの文化を守れるように、平等をおしつけて、足を引っ張らなければそれでいいのだ。


(05/03/04)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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