団塊フェミニストの甘え






すでにここでも何度も論じてきたように、「団塊世代」は、彼ら自身の主張するその「リベラル」なイデオローグとは裏腹に、自我の形成期に刷り込まれた「伝統的な農村共同体的価値観」に根強く規定された意識や行動を示す特徴がある。したがって、性別役割意識においても、共同体的価値観に基づく、男尊女卑的な意識がしばしば現れる。それだけに、団塊世代の特徴は、その世代の男性の行動や意識中心で語られることが多い。では、この世代の女性陣には問題ないのかというと、そんなことはない。

団塊世代の男性は、マジョリティーでいうのなら、実は「集団就職世代」だが、彼らの多くは「全共闘世代」を自称する。同じように団塊世代の女性は「専業主婦世代」だが、彼女たちはウーマンリブ、フェミニストを自称する。その主張は「旧態依然とした男性社会」vs.「男女が同等の権利を持つ平等社会」という問題意識をベースとしている。彼女らの主張は、当時の社会のあり方に対して、イデオロギー的に対立項を提示したカタチをとっている。

この主張は、「リベラル」や「民主的」なオピニオンがそうであるように、一見進歩的に見える。しかし、団塊的なフェミニズムは、それ以降の世代、特に雇用平等法以降の女性たちには、強い影響を与えることはなかった。今となれば、その理由は明確だ。ひとつ、その理由を考えてみよう。実は人間のあり方においては、重要な対立軸は、男性であること、女性であることだけではない。それ以上に、「自立・自己責任」か「甘え・無責任」かという問題がある。従って、男女の問題を考えるときには、男女軸だけでなく、おなじみの「自立・自己責任」対「甘え・無責任」軸も加え、この2軸で規定される4種類の人間を前提としなくてはならない。

すなわち世の中には、「自立・自己責任」の男性、「自立・自己責任」の女性、「甘え・無責任」の男性、「甘え・無責任」の女性、の4種類の人間がいることになる。さて、ウーマンリブ、フェミニズムが自由・平等な社会を求めるものであるとするなら、その理想形としての「平等社会」は、「機会の平等」を貫徹する社会でなくてはならず、そのためには男女とも「自立・自己責任」に生きる社会、とならなくてはいけないハズだ。事実、「自立・自己責任」に生きている人たちの間では、個性差という意味での「個人間の違い」はあっても、男女間の性差や差別はない。もし定量的な差が生じるとすれば、それは性別とは何も関係ない、個体間の「能力差」だけである。

一方、フェミニストたちが主張するまでもなく、高度成長期の日本社会が、「甘え・無責任」な男性にとっての天国だった点は事実である。「サラリーマンは気楽な稼業」ではないが、高度成長の波に乗っている企業にはいってしまえば、仕事をしなくても、仕事ができなくても、楽でオイシイサラリーマン生活ができた。これは、当時の企業の人事政策が、右肩上がりをベースにした「バルク買い」だったことに起因する。極一握りの優秀な人材がほしければ、底引き網よろしく、その人材を含むであろう層を丸ごと掻っ攫うことが一番確実だ。そして、その他の人材は仕事をしなくても、景気の拡大の中で充分養える。

したがって、サラリーマンの多くは、「飼い殺し」でよかったのだ。このオイシイ状況を、「甘え・無責任」に生きたい女性たちが、指をくわえてみているだけで済むわけがない。私達にも、そういう「甘え・無責任」なオイシイ生活をさせろ。こういう「甘え・無責任」な女性たちのメッセージが、高度成長期のフェミニズムの原点である。ここから、団塊世代のフェミニストの主張の甘さが生まれる。しかし、さすがにこれはストレートに主張しにくいので、団塊世代らしく、色々理論武装された。その主要な核となったのが、当時「革新的」といわれていた、リベラリズムやマルキシズムなどの理論の援用であった。

そもそも男でも女でも、デキるヒトはデキる。ダメなヤツはダメ。競争原理が働けば、性別に関係なく、デキるヒトは評価され、ダメなヤツは淘汰されるハズである。しかし現実には、こと男性中心の構造を持っている団塊世代では、「甘え・無責任」な無能男性が、特に企業の中で大きい顔をしてはびこっていた。「甘え・無責任」な無能男性が、悪平等的再配分政策に基づき、日本企業の社会主義的な労働環境の下で、自分達だけでオイシイ思いをしているのはオカシい。ここまでの認識については、当時のフェミニスト達の主張は100%正しい。

しかし、ここで攻撃すべき対象は、あくまでもオイシイ汁を吸っている、「甘え・無責任」な無能男性である。彼らが甘い汁を吸えないような世の中にしようというのなら、これは大賛成である。つまり、「自立・自己責任」でしか生きられない世の中にしよう、という新古典派的なオピニオンである。しかし、ここで求められた主張は、こういう「甘え・無責任」な無能男性をポジションから引き摺り下ろそうというモノではなく、能力的に同じなのだから、「甘え・無責任」な無能女性にも、同じような甘い汁を吸わせろ、というものだった。

もちろん、そういう主張をするのは自由である。しかし「甘え・無責任」を是認するスタンスである限り、ポジションにしがみつく無能男性も、同じ「権利」を求める無能女性も、同じ穴のムジナである。これでは、第三者的にみて、なんの解決にもなっていない。それ以降の、「自立・自己責任」に生きようという世代から支持が得られないのも当然だ。それどころかその主張は、世の中に、より「甘え・無責任」を蔓延させようという、極めて悪平等的なオピニオンである。所詮は、「甘え・無責任」な人々の間での、パイの奪い合いといわれても仕方ないだろう。

このように、団塊世代のフェミニズムは、積極的にあるべき姿や目指すべき理想像を示すのではなく、「甘え・無責任」な男性の問題点をあげつらうことで、自分達にも同様の「分け前」を得る権利があることを主張したに過ぎない。よく考えて見ると、このロジックはこの世代に共通するモノであり、なにもフェミニズムに限らない。当時の労働運動も、人権運動も、市民運動も、「甘え・無責任」な人たちによる、オイシイ蜜の再分配、すなわち「われわれにも「甘え・無責任」を」という運動に過ぎなかったのだ。

そのベースとしては、当時最盛期だった55年体制という事実上の自社連合政権(これ自体、自民党と社会党が互いに甘え・持たれあう構造だったわけだが)が、右肩上がりの高度成長をバックに、高度成長の恩恵の再分配という政策を推し進めていた点が大きい。一見、自由平等な社会を求める運動であるようなフリをして、その実は、自分たちにもオイシイ思いをさせろという運動。これは、あくまでも右肩上がりを前提にした「悪平等政策」の尻馬に乗っているだけのコトだ。

男女をはじめ、全ての人間に対し分け隔てなく、本当に「機会の平等」が与えられてはじめて、自由で平等な社会は実現する。そのためには、一人一人が「自立・自己責任」をベースに生きることが前提となる。「甘え・無責任」な悪平等主義が、「結果の平等」を求める限り、自由も平等もありえない。平等とは、「権利だけ同じように頂く」ことではない。あらゆる義務や責任も含めて、平等に分け持つ社会になってはじめて実現する概念であることを忘れてはならない。これをクリアしない限り、いつでも、誰からも、ジェネリックに支持されるオピニオンとはなり得ない。



(05/04/15)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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