企業の社会的「責任」





「甘え・無責任」vs.「自立・自己責任」とい「顕教徒対密教徒」の対立は、そもそも一人一人の生き方という「心の中の問題」ではない。たとえば、絶海の孤島に一人流されている状態を考えてみればいいのだが、こういうシチュエーションでは、ここでいうような対立構造は、現れようがない。全部一人でやらなくては行けない以上、自立も甘えもない。甘えという意味では、自然現象に流されるのか、立ち向かうのかという違いはあるかもしれないが、これは責任のあり方の問題ではない。

そういう意味では、「甘え・無責任」vs.「自立・自己責任」という構造は、あくまでも複数の人間がいる状況で、インタラクションが行われてはじめて問題になるモノということができる。それが現れるのは、自分対他人という1対1の関係か、自分対組織という1対nの関係が見出される状況下である。1対1の関係の場合においても、「親分対子分」とか「師匠対弟子」とか、一方が責任を他方に押しつけて甘える「非対称的関係」もあるにはある。しかし一般には、非対称的な関係が生まれるのは、充分に相手が多く、容易に責任を押し付けられる場面である。

したがって、「甘え・無責任」vs.「自立・自己責任」という構造が現れてくるのは、その多くが個人対組織という関係性の文脈において、ということになる。言い方を変えれば、普通の人々が責任を押し付けられる相手は、あくまでも「複数の人間からなる組織」や「社会システム」が中心となるということだ。つまり「顕教徒対密教徒」の対立とは、組織をめぐるスタンスの違いからくるものなのだ。だからこそ、経済や社会が複雑化し、個人活動より組織活動が中心になった近代になって、この問題が大きくなった。

近代的な合理性を基盤とした、「分業」に基づく組織。それが単なる個人の頭数合わせ以上の効率性を発揮し、機能的なパフォーマンスを示すためには、「自立・自己責任」な人が必要不可欠である。それは、組織そのものが責任をとり、リーダーシップを発揮することができないからに他ならない。文明間の価値比較に組するものではないが、18世紀以降の西欧において、近代産業社会が最初にたちあがった裏には、西欧における「自立・自己責任」な文化とそれを担う層の存在があったことは否定できない。

さて、長く日本では「企業性悪説」が唱えられてきた。かつての左翼(今でもこういう主張をする人はいるが)は、何もかも問題を企業に押しつけてきた。それ自体、自分自身の責任可能性を回避するという意味においては、極めて「甘え・無責任」なのだが、こう考えると、その理由も明解になる。「甘え・無責任」な日本においては、そもそも企業や組織というのは、「責任のゴミ捨て場」だったのだ。企業性悪説は、そのメンバーが「甘え・無責任」だからこそ起るモノといえる。

彼らにとっては、企業、組織は常に「ワルモノ」でなくてはいけない。だからこそ、どんな責任を押し付けられるし、「万病に効く」免罪符となる。大企業が悪いからだ。政府が悪いからだ。社会が悪いからだ。その主張の裏には常に、「だから自分は悪くない」という、言わずもがなの下の句が付いている。かくして、責任は世の中のネットワークの闇の間に消えていってしまう。後に残るのは、顕教徒にとって理想的な無責任社会というワケだ。

ところが、経済や社会のグローバル化と共に、日本にも「甘え・無責任」でない人により構成される組織が出てきた。最初、それは外資系とか「化外の組織」として見て見ぬフリをしていればよかったのだが、純粋に「国産」でも、地球規模で活動する組織であれば、こういう行動様式を取らざるを得ないようになった。世界的に「甘え・無責任」なヒトは多い。そもそも大衆とは、洋の東西を問わず「甘え・無責任」なモノだ。ではグローバル化で、何が変ったのか。それは、組織にも責任をとることが求められるようになったという点だ。

そもそも組織は、責任の取りようがない。法人という、法律上の擬似人格は与えられても、企業そのものには責任能力がない。責任をとるのは、あくまでも企業という組織の中にいる人間、それもリーダーシップを取る人間だ。では、「自立・自己責任」な人間がリーダーシップを取ると、組織行動はどうなるか。当然その組織も、自らの行動を律し、責任を果たすモノとなる。ここに、「自立・自己責任な企業」という「企業性善説」が生まれる。

CSR、サステイナブル・エンタープライズ、社会貢献、企業の文化性等々、最近喧しくいわれている。しかし良く考えれば、これは何ら新しいことではない。「企業性悪説」に立つ限り、これは大変な変化であり、ゆゆしき問題ということになる、だが、「企業性善説」に立つならば、こんなのは当り前である。企業が「自立・自己責任」のリーダーの元に、いい組織になっていれば、おのずとその存在自体が「善」になる。それならば、その活動も「善」であるからだ。そういう組織では、自然にやっているだけで、社会的責任はおのずと果たせる。

「文化活動」としてなにかを敢えてやるのではなく、その企業の基本的な商品やサービスの提供自体が、人類にとっての文化になっていることが大事だ。同様に、社会貢献も敢えてなにかをやるのではなく、その企業の基本的な商品やサービスの提供自体が社会への貢献になっていなくてはダメだ。「自立・自己責任」なリーダーシップの元にある企業は、全ての活動に責任が伴い、全ての活動が人類のためになっている。「企業の社会的責任」を問うには、まず「リーダーが「自立・自己責任」で行動する」ことが第一なのだ。



(05/05/20)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


「Essay & Diary」にもどる


「Contents Index」にもどる


はじめにもどる inserted by FC2 system