共同体依存症





昨今、日本の社会に関して問われている問題の多くは、現実として、社会の多くの場面で「共同体」がなくなってしまったのにも関わらず、共同体の中だけで生きるリタラシーしか持っていない人々が、まだまだたくさん存在しているコトによって引き起こされている。こういう人たちは、他者に依存しなくては、生きていけないし、判断もできない。しかし、その依存すべき他者が常にいてくれるワケではない。

キれる問題も、引きこもりも、マナーの問題も、全てその根源は、この社会の現実と期待とのズレにある。そもそもこの問題は、農村共同体的な家庭内ロールモデルしか持たなかった団塊世代が、集団就職で都会に大挙して押し寄せ、ニュータウンで核家族を構成せざるを得なかったという、高度成長期特有の社会的事情により引き起こされた。そして、団塊Jr.にも、農村共同体的な家庭内ロールモデルは、親からの刷り込みにより引き継がれた。このような、時代に固有の事情がその裏にあるのだ。

そもそも「自立した個」を確立しているとは、自分で自分の居場所を作れるヒト、ということである。それに対し、「依存性の強い個」は、誰か他のヒトか、あるいは集団そのものから、自分の居場所を作ってもらわない限り、居場所が作れない。したがって、集団の他の成員や集団そのものに対し、過剰に期待するとともに、過剰に気を使うことになる。共同体依存症のヒトにとっては、社会集団とは「捨てられたら、終わり」なモノだからだ。

こうして彼ら・彼女らは、自分を主張できないコトになる。自分を主張することは、集団に見捨てられるリスクを伴う。なにより集団から見捨てられることを恐れている以上、そのリスクは、是が非でも回避すべき、クリティカルなリスクとなる。もし、自分を主張することにより、なにがしかのメリットが得られるとしても、それは考慮に値せず、リスク回避こそが最大、最高の選択肢となっているワケである。

団塊Jr.層のコミュニケーションのあり方については、「コミュニケーションそれ自体が目的化している」という指摘が良くなされている。このような事態が起るのは、まさに「捨てられていない事の確認」が、何よりも重大事項化しているからである。常に捨てられる危険性がある。そうなっては生きてゆけない。だからこそ、強迫神経症のごとくに、いつでも「つながっていること」を確認しなくては落ちつかないのだ。

かつての農村共同体のような、リアルな共同体の中では、こういう問題は起きない。そこではみんなで依存しあうのが前提になっているから、そもそも誰も捨てようとしない。相手を裏切る行動を取ること自体が、自分が捨てられるリスクを増大させるからだ。しかし今では、学校や会社といった社会集団においては、自立した個人と自立していない個人が、渾然一体と混ざり合っている。ここから、構造的問題が生まれている。

そういう集団の中でも、数からいけば、自立していない「甘え・無責任」派のほうが多いのは間違いない。多数決原理に従う限り、「集団から捨てられる」可能性は低い。しかし、自立した個人のほうが、声が大きく主張が強い。その一方で、「甘え・無責任」な人間は、主張すべき意見そのものを持っていない。このため、集団自体の舵取りは、自立した個の主張に引きずられがちである。かくして、自立していない人間は、常に「集団から見捨てられるのではないか」というリスクを負うのである。

世の中には、1対1で話している最中に、相手にケータイがかかってきて応対すると、にわかに不安になってしまヒトがいるという。自立した個ならば、最初から目の前のヒトが、常に100%自分のコトだけを考えていてくれる、とは思わない。そもそも相手に依存していないのだから、自分だってそうだし、自分がそうなら、相手もそうだろうと考えるのが普通である。せいぜい、目の前にいるのだから、離れているときよりは互いのコトを考えるチャンスは多いと思うぐらいだ。

ところが、依存性の強いヒトは、常に相手が自分のコトを考えていてくれないと、不安になってしまうらしいのだ。したがって、こういう依存型のヒト同士は、不安ゆえにベタベタの関係になりやすい。この最たるものが「身内にすがる」行動だろう。団塊世代、団塊Jr.にとって、家族は「最後のリアルな共同体」である。したがって、社会的な集団に居場所がなくなったとき、最後に戻ってくるのが「家族」ということになる。

だからこそ、「引きこもり」の引きこもる先は、あくまでも自宅でなのだ。それは、「最後の共同体」たる「家族」への甘えを前提にしている。自立した個が、あくまでも家族からの独立を最終的な目標とするのと正反対である。パラサイト・シングルが発生する理由も、これと同じである。社会に対して自分を主張できない「気の弱い」人間に対して、外界から守ってくれつつ居心地のいい「家」があるからこそ、こういう現象が起きるのだ。

各種の「振り込め詐欺」が起る理由もそこにある。客観的に考えれば、一方的にかかってきた電話に、「信じるに足るものである」と判断できるだけの情報があることは稀である。自立していれば、状況を客観的に判断できるので、少なくとも「即、真にウケる」のではなく、それが信じるに足るものかどうか、事実関係を調査したり、第三者に照会したりしてから、対応を考えるだろう。

判断基準を他人に依存しているからこそ、得た情報に対して自分でどう捉えるかを決められないし、他人から入ってきた情報だからこそ、簡単に信じてしまうことになる。こういう人たちは、そもそも他人を信用するトコロから入ることになる。それに対し、自立したヒトなら、他人が信用できるかどうか、ひとまず疑うところから入る。社会が「自立」を前提とした自己責任型になればなるほど、こういう詐欺は増えることになる。

ポイントは、自立した個ならば、どういう集団であろうと、それに対峙する存在としての自分を捉えられるところにある。その関係性の中で、その集団とどういうギブ・アンド・テイクをするか考えられる。それに対し、依存性が強い共同体型人間は、集団の一部分としての自分しか捉えられない。これは生き方の問題なので、どちらがいいとか、どちらが正しいというものではない。

ただ、人間にはこの両者があり、その生き方は互いに違うこと。そして、自分は一体どっちのタイプなのかをキチンと知ること。この二点は押さえておかなくてはならない。依存性が強いヒトのためには、宗教でも何でも用意し、その中では、厳しいことをいわれず、居心地良く過ごせる環境を用意すればいい。その一方で、自立したヒトには、足を引っ張られずに自分の可能性を試せる環境が準備されればいい。そうなれば、どちらを選ぶかは、あくまでもそのヒト次第だ。


(05/09/09)

(c)2005 FUJII Yoshihiko


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