三大コモディティー







今思い起こせば、Windows95の登場した1995年は、コンピュータやネットワークから「夢」が消えた年でもあった。それ以前は、「パソコンが趣味」というのが充分成り立っていたが、今ではビジネスではあっても、とても趣味の対象ではない。せいぜい、最速マシンの組みたてとか、ある種のマニア的な対象でしかなくなった。そして今や、コンピュータやネットワークから「付加価値」さえも消えつつある。

まさに、コンピュータやネットワークは日常そのものである。インターネットなど、コモディティーの極み。水と空気とインターネットは、三大コモディティーとさえいえるだろう。これら究極のコモディティーは、ないと困る「必需品」であるはが、あるところでは当り前の存在。なにもありがたがったりしないし、あるからといって幸せになったりもしない。まさに、あって当然なのがコモディティーなのだ。

日本のように水の豊かな環境では、飲んでおいしい水が、それこそ「湯水のように」ふんだんに使えても、当り前ですんでしまう。ヨーロッパのアルプスのように空気のキレイな環境では、清々しい風に包まれても、なんらありがたがったりしない。それと同じで、コンピュータやネットワーク環境が縦横無尽に使えるところでは、そのありがたさはわからないのだ。

もっとも、水のない砂漠地帯では、水のありがたみが良くわかるように、それが使えなくなれば、そのありがたみはわかる。「圏外」に行くと、携帯のありがたさがわかるのと同じで、ネットワーク環境のないホテルとかに泊まらざるを得ないときになってはじめて、そのありがたみを実感できる。だからといって、普段使っている限りにおいては、あることのありがたみはわからない。

かつて高度成長期には、「三種の神器」と称された「3C」、クルマ(Car)、エアコン(Cooler)、テレビ(ColorTV)というのがあった。当時、これらの普及率はまだ低かった。だからこそ、それを「持っていること」が付加価値となっていた。その後、これらの普及率は高まり、マス商品へとテイクオフする。こうなると、それを持っていることが当り前になるが、これは言葉を変えればコモディティー化である。

つまり、大衆化とはコモディティー化である。コモディティー化してはじめて、マスレベルで普及することができ、スケールを追える。そして、コンピュータやネットワークも、日本ではもはやこの段階になった、ということである。新しい情報技術などを、一部のエッジなヒトが使っている間は、今までにない「新しい現象」が起ることが多い。これをもって、新しい技術が社会に変化を起す、と考える人がいる。

しかし、これは自己矛盾を抱えた論理だ。それが「新しい現象」で居続ける間は、利用者は一部のエッジな人だけである。いつまでたっても「ロングテール」を脱することができず、普及率は高まらない。大衆は、新しいことをやらないところにその特徴がある。新しい技術であっても、それを換骨奪胎し、自分のベタな世界に引きこんではじめて、利用するようになる。大衆化した時点で、登場時のような新しさは消えてしまっているのだ。

ここで重要なのは、マス化・コモディティー化したものは、誰も意のままにはコントロールできないということである。それは、大衆の行動というのは、熱力学的な世界だからだ。基本的には、みんな勝手にバラバラ行動している。しかし、その結果を全体としてみると、マスとしてはある方向性を持つ。それが、結果としての大衆の意思である。ここには、誰もリーダーはいない。あるのは結果だけだ。

コンピュータやネットワークは、もはやこのレベルにまで普及してしまった、ということだ。だからこそ、今更ITに「新しいこと」を期待してもはじまらない。これらが、社会的に重要な「基本インフラ」になっていることは確かだ。しかし、そこで「新しいこと」が生まれるというのは、もはや幻想に過ぎない。スケールのある必需品なので、ビジネスとしての可能性は今後もあるだろうが、新しい付加価値を期待する時期は、もう終わってしまったのだ。




(06/09/01)

(c)2006 FUJII Yoshihiko


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