ジャーナリズムの思い上がり






いまや、情報には価値がない。情報がコモディティー化し、いわば空気と水と情報というカタチで、最もありふれた存在となるのが「情報化社会」の本質だ。知識や情報が価値を持った「産業社会」とは、根本的にパラダイムが変化している。メディアに関わる者は、まずこの事実を受け入れる必要がある。情報とは、あって当たり前のモノであり、わざわざ金を出して手に入れる価値などないものなのだ。

こういう時代では、当然、マスメディアの定義も変わってくる。「産業社会」の時代においては、情報が売り手市場だったゆえに、マスメディアとは、マスにアクセスできるメディアを意味した。しかし、情報化社会では、あらゆる情報が、いつでもどこでも、あらゆる人々からアクセス可能となっている。こういう状況下では、マスにアクセスではなく、マスに実際にリーチし支持されてはじめて、マスメディア足りうる。

情報としてユーザの手元までデリバリーされても、それだけでは何の意味もない。その情報に接触し、面白がって受け入れられてはじめて、ユーザに届くのだ。新聞が何百万部宅配されても、それが手にとって開かれ、読まれなくては、何の意味もない。手にとってもらえても、折込チラシにしか関心がなかったり、紙面を開いても、広告のほうに主たる関心があったりすれば、記事は永遠に読まれることはない。宅配システムが、マスメディアの前提条件であっても、新聞紙面そのものは、構造的にマスメディアではない。

このように、マスメディアを規定するものは、そのコンテンツが「面白がらせてくれる」と期待させるとともに、実際それに触れてみたとき、期待にたがわず「面白い」と思わせるだけの内容を持っているかどうか、という一点にかかっている。テレビでは、ヒットする番組の影で、その何倍もの本数の番組が、ウケずに途中打ち切りとなっている。そういう意味では、ヒットした「面白い」番組こそマスで、コケた番組は、マス足りえなかったということになる。

確かに団塊世代に代表される、昭和20年代以前に生まれた世代においては、「社会的規範」というものが、「個人的規範」の上位概念として存在している。しかし、今や日本社会の大多数であると同時に、労働人口という面では、そのほとんどを占めるに至った昭和30年代以降に生まれた世代においては、そもそも「社会的規範」など存在しない。あるのは、「個人的規範」だけである。

もっとも、その「個人的規範」のよりどころをどこにおくか、という点では、若い世代でも「甘え・無責任」の日本人らしく、自分の外側、すなわち「他人の目」に置く人たちが多い。これは一見、「社会的規範」がまだ存在するようにも見える。しかし、社会的なコンセンサスとしての「規範」が存在するワケではなく、バラバラに規定された「個人的規範」が、あくまでも「偶然の一致」として共通化しているだけなのだ。

新聞に代表される、日本の「ジャーナリズム」は、そのルーツが明治期の自由民権運動につながることもあり、長らく「社会的規範」を主張するところに、自らのアイデンティティーを持ち続けてきた。そして、「社会的規範」が実体を失った今になっても、この「妄想」から脱皮することができない。「新聞離れ」の実態は、活字離れでもなんでもなく、この「自己アイデンティティーの無意味化」にある。偉そうに「社会的規範」を主張することなど、単なるギャグでしかない。

もちろん、古い世代の人たちが、そういう「社会的規範」が歴然と存在していた、昭和30年代以前を懐かしんで、ノスタルジーに浸るのは構わない。しかし、そんなものがすでに存在しなくなっている、という事実を隠蔽することはできない。もちろん、数ある一次情報の一つとしてみれば、それなりに「新聞」というシステムや「報道」という機能も意味がないワケではない。しかし、ここでも「社会的規範」は始末に悪い。

「ジャーナリズムでござい」という情報は、イデオロギー的な思い込みや価値観により色付けされている。こういう変質が加えられたのでは、一次情報としての質は著しく低下してしまう。ジャーナリズムを腐らせてしまったのは、唯我独尊で、世の中の流れや変化を見ようともしない、ジャーナリストの思い上がりにある。もともと、ジャーナリズムにはある種の思い思い上がりが伴う以上、ジャーナリズムの衰退は必然というべきかもしれない。



(07/02/23)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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