大衆主権






大宅荘一氏が1960年代に、大衆におけるテレビの普及を評して言い始めたとされる、「一億総白痴化」。概して流行語というのはそういうものだが、このコトバも、ネコも杓子も使い始めるとともに、元来大宅氏が意図したイメージから大きく外れてしまった。外れてしまった分、この手のバズワードにしては珍しく、「成句」として定着し、いまだに時に触れて目にするコトバとして生きつづけている。

今から振り返ってみれば明白だが、そもそもテレビが普及することによって、大衆が「白痴化」したのではない。もともと、大衆の知的レベルはそうだったのだ。大衆の知的水準は、なにかの外的要因によって低められるものではない。同じように、それを「啓蒙」し、高めることも不可能である。ひとりひとりの個人とは違い、統計的に成り立つ大集団では、系の平衡が成立しており、外的要因ではその平衡点を左右できないからだ。

大宅荘一氏自身、よくその著述や発言を読み解いてみると、マスコミとは大衆の最底辺に「迎合」してはじめて成り立つモノであることをスルドく見抜き、正しく認識していた。マスコミは、大衆主権の代弁者とならなくては、マスとして存在し得ない。問題はここにある。マスが成立するためには、それが大衆の望むものであることが前提になる。重要なのは、ここに直接民主主義が成立してしまっている点である。

すなわち問題は、マス・コミュニケーションでも、マス・プロダクションでも、スケールを追及し、マスを前提とした瞬間、世の中が大衆の意思によって決まるようになるところにある。マスとは、なんと民主的なことだろうか。多数が望むことが、望むように実現する。これができてはじめて、結果として多数の支持が得られ、マスになる。これは、最近いうところの「ショートヘッド」のメカニズムとして、今でも生きている。

すわなち「一億総白痴化」論とは、この大衆が社会のイニシアチブを取る「マス性」に対して、棹を挿したい人たちの利害を代弁したものといえる。それは、マス化する以前の社会においては、それなりに「オピニオン・リーダー」を称して君臨していた、インテリ層や言論人といったエスタブリッシュメントの人々である。大衆が直接自分の意見を語れるようになると、彼らの特権が失われてしまうのだ。

インテリ層や言論人が、いかに「正論」をはこうが、それが大衆から支持されることはない。かつての時代、それが「輿論」のように見えていたのは、そういうスノッブな層が言論手段を独占していたからに他ならない。メディア独占で得をしていたのは、知識人層だったのだ。エラそうなことをいっていても、それが受け入れられ、「世論」となっていたわけではない。マスコミの成立とは、その「砂上の楼閣」が崩れ、ハダカの王様になってしまうことなのだ。

エスタブリッシュメントたちは、実は「40年体制」が確立した戦時中のプロセスの経験から、自分達が大衆の数の前ではいたって無力なことを悟っていた。だからこそ、真に「民主的」な存在であるテレビに対し、「白痴化」といって警戒したのだ。これが普及すると、本当に権力が大衆のものとなってしまい、自分達の持っていた特権が失われてしまう。これに気付いていたからこそ、強烈に反発したまでだ。

実はそのエリートも、人格エリートの時代は、日本ではすでに明治期についえてしまい、単なる偏差値エリートの時代になっていた。だから、表面的に秀才なだけで内容がない。その分、自分達の内実を隠す「仮面」が必要だった。それは、こと文化面においては、活字が「書ける」「読める」ことがエリートであり、それができれば文化を牛耳るコトができる、というものだった。しかし、それは「つもりになれる」だけのこと。

その時代さえも、「民主化」の前に終わってしまった。19世紀末に、日本で大衆社会化が起こり始めてから、政治的な「大衆主権」が徹底するまで、半世紀近くを要した。同じように、文化においても、最も大衆的なマスメディアであるテレビが登場してから、文化的な「大衆主権」が徹底するまで半世紀がかかった。昨今言われる「新聞離れ」の本質は、まさに文化における「スノッブ主権から大衆主権へ」の変化の象徴である。

例の納豆事件だって、その文脈でこそ理解できる。大衆にとっては、「ヤラセ」も「作り物」もない。あるのは「面白いか、楽しいか」だけである。これを理解でき、実践してきたテレビ。大衆から超然とし、自分達の主義主張を押し付けて。「これが正しい」と開き直りたい、新聞に代表されるジャーナリズム。そういう文脈で考えれば、21世紀になってもジャーナリズムが成り立っていることのほうがおかしい。

ジャーナリズムに死を。大衆こそ正しい。これが、真の「民主主義」というものだ。これがいやなら、主張すべきは「大衆を否定すること」ではなく、「民主主義を否定すること」である。大衆は間違っている。少数派の俺たちこそ正しい。それを主張することは決して間違っていないし、充分に拝聴すべき立派な意見だと思う。しかし、それは民主主義やリベラルな考えかたを真っ向から否定するものであることを踏まえなくては、論理が自己矛盾し、破綻しているといわざるを得ない。そんな意見は、犬も喰わないぞ。



(07/05/18)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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