数の力






90年代以降の「日本の大衆」の動向を見ていると、そこで「統計値」の果たしている役割が異常に肥大していることがわかる。元来統計値とは、現状の状況を客観的に記述するため、いわば「結果論」として用いられるものであった。それがある時点からは、人々がどちらへ向かうべきかを指し示す指針として使われるようになったのだ。この顕著な例が、ランキング指向である。

ランキングという考えかた自体は、ヒット曲ランキングのザ・ベストテンのように、古くからあるし、人々の間で親しまれていた形式である。しかし、かつてのランキングの楽しみ方は、あくまでも結果として捉え、たとえば自分の好きな曲が何位に入っているかで一喜一憂したり、自分のリクエストが、応援したい曲のチャートアップにどれだけ貢献したかを想像してワクワクしたり、というものであった。

それが、バブル崩壊以降、根本的に変化した。ランキング上位に入っているものを選ぶ、ランキング上位に入っているから買う、という、自分の行動の「よりどころ」となりだしたのだ。もちろん、こういう行動をとる人は昔からいた。しかし、「ミーハー的」などといわれ、どちらかというと恥ずかしく思われていた。これが正々堂々と行われ、とてもいいこと、とても正しいことと思われるようになったのだ。

これは、時代的なものというよりも、「行列ができていると、なんかいいことがありそうな気がして並びたくなる」といわれた団塊Jr.世代が、社会人となりだし、生活者・消費者としてマーケット・デビューを果たしたという、世代的な要素が大きく影響している。そのメルクマールが、東急系でチェーン展開している、「ランキン・ランキン」の登場ということができるだろう。

この世代が、「世の中のトレンド」の基準としての「統計値」にコンシャスなのは、「偏差値教育」の徹底化ということも見逃せない。自分が全体の中で、どういうポジションを占めているのか。「甘え・無責任」指向の日本人の多くは、この問題に非常に関心が高いが、これを統計値として捉えるという指向は、偏差値を教育のあらゆる基準としたことの影響が大きい。なんせこの世代は、どういう学校を選ぶかも、自分の偏差値を基準としているのだから。

団塊Jr.世代が、「自分はマジョリティーなのだ」と納得するために統計値を重用する傾向が、思わぬヒットにつながったのが、三浦展氏「下流社会」のベストセラー化である。三浦氏自身も述べているように、この本がヒットした裏には、団塊Jr.の「下流層」にとって、「いまのままでも、多数派だからいいんだ」という現状肯定のバイブルとなったことが大きい。いわば、想定外の読まれ方がヒットにつながったのだ。

もっとも、この本自体、三浦氏の中にある「団塊的なるもの」のせいか、論調として、団塊世代や団塊Jr.世代の現状を、完襞なきまでに叩きのめすものではなく、それなりに勇気付け、元気づけるの「優しさ」を持っていた点が、かなり影響した面もあるだろう。しかし、それ以上に「多数に属している安心感」を求める世代的な志向に見事に応えてしまった点が大きということができる

これをもう一歩開き直らせたのが、昨今のSPAの特集である。そこで展開される「下流の現状」データは、その意味では、下流こそ主流という安心感を与え、そこに安住することの正当化をもたらしている。この雑誌自体、今では団塊Jr.世代の「下流男性」が主たる読者となっている傾向が強いが、誌上で繰り広げられる「統計調査データ」は、彼らに現状肯定的な安心感を与えている。

大陸横断ウルトラクイズに代表されるような、多数参加ゲーム形のクイズでは、人数が多い間は、より大きい集団のほうについて回ろうという人々がほとんどとなることはよく知られている。核となる人間がちょっとでも多ければ、たちまちそちらにマジョリティーがつき、圧倒的大集団となってしまう。これ自体は、「勝ち馬に乗る」という言葉があるように、戦国時代の昔から、日本人では「常識的」な傾向だった。

小泉首相の時、衆院選で盛り上がった「劇場政治」も同じ構造だし、いつも引き合いに出すように、「ノらなきゃ損々」という日韓ワールドカップ時の盛り上がりも同じである。けっきょくこのモチベーションは、多数に甘え、責任を曖昧にするためには、「大きい塊」のほうに乗ったほうが得、というコトに尽きる。まあ、「甘え・無責任」にひたっている間に、いつの間にか下流に落ちてゆくワケだから、自業自得でそれもいいんじゃないの。



(07/07/06)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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