ユニバーサル・サービス






10月1日より、郵政公社が民営化され、日本郵政グループが発足した。いつも言っているように、民営化というのは、あくまでも組織の構造や運営を最適化するための「手段」であり、けっしてそれ自体が「目的」ではない。したがって、その成果が得られるかどうかは、これからの運用にかかっている。とはいうものの、「官」の時代のような不透明さを脱し、「民」の基本であるディスクロージャーが行われることによる「見える化」だけでも、それなりには意味がある。

官から民への流れに関しては、かならず抵抗勢力が存在する。それは、とりもなおさず「見える化」されては困る人たち、ということである。アンダーグラウンドの隠然とした利権、既得権を持ち、それを手放したくないのみならず、それを手にしていることを公開されてしまうのがイヤだからこそ、民営化に反対する。自分達が、何か悪いこと、うしろめたいコトをしているという自覚があるから、それをゴマかす続けるために「民営化反対」を叫ぶのだ。

さて、いろいろな立場のステークホルダーそれぞれに、それぞれの既得権が存在するのが官である。したがって、その立場は全く異なっても、こと現状維持を求め、民営化によるディスクロージャーに反対するところは共通している。郵政民営化でいうなら、特定郵便局長も、全逓も、イデオロギー的な主張こそ違え、既得権の擁護・維持という面では、全く共通する「同じ穴のムジナ」である。そういう既得権者がいい思いをする分、一般の利用者がワリを喰っているともいえる。

このような「民営化反対論者」が、自分の立場を正当化しようというときに決まって持ち出すのが、「ユニバーサル・サービス論」である。国鉄民営化然り。電々公社民営化然り。公共サービスに類する官業が民営化するときには、かならず抵抗勢力が振る旗がこれである。曰く、民営化して効率化すると、採算に合わないエリアのサービスができなくなり、広くあまねくサービスを提供することができなくなる、と。しかし、コレでは本末転倒である。

官業で非効率であるからこそ、採算の取れない事業もチェックなしに実施されてしまう。その結果、ますます効率が悪くなり、全体の収支もいびつになってくる。これを是正し、バランスの取れた財務状況にしない限り、需要の多いサービスを求めるユーザーは、不合理に高いコストを負担させられてしまうことになる。ましてや、官の独占事業、許認可事業となると、外部の市場圧力による是正も望めない。

ディスクロージャーにより、明らかに採算に合わない事業をあぶり出し、そのコストに見合った料金を設定するなり、その事業自体を廃止するなり、採算にあわせるための方策を意思決定する。まさに、民営化の成果が上がるかどうかは、ここにかかっている。この荒療治ができなくては、折角の民営化の「目的」は達成できない。このようにユニバーサル・サービス論とは、文字通り、民営化の根幹を否定する、官の論理そのものなのだ。

公共性において重要なのは、やはり「機会の平等」である。ある地域に住む人々の郵便物は、そもそも一切受け付けない、というのは差別である。また、ある地域に対しては、絶対に配達しないというもの、これまた差別である。このような「差別」を行わない、というのが「公共性」の基本である。郵便物の発送を受け付ける手間が違っていたり、配達の料金が違っていたとしても、差別がなければ、公共性は担保される。

そもそも、どこに住んでいても同じサービスが受けられるという発想自体が贅沢であり、生意気なのだ。全国津々浦々まで、同じレベルの生活サービスが受けられるようになったのは、高度成長を経て1970年代以降のハナシである。それ以前は、歴然とした格差が存在した。医者のいない村など当たり前、電話の通じていない集落も、数限りなくあった。それでも、人々の生活はちゃんと成り立っていた。

たとえば医者や助産士がいなくても、経験をつんだ「ベテランの女性」が指導すれば、ちゃんと子供は生めるし、それで何百年もやってきたのだ。それこそ、生活の知恵である。それを捨てて、「どこでも都会並み」のサービスを求めるのが当然という風潮に乗っかったほうがいけないのだ。そんな既得権は、田中角栄内閣以来、たかだか2〜30年の歴史しかない。そっちのほうが、日本の歴史の中では異端である。そういう「お上に甘える」構造を立て直すこと、これこそが民営化の真意である。



(07/10/05)

(c)2007 FUJII Yoshihiko


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