地球と国境






産業社会の時代においては、近代西欧的なスキームとしての「国民国家」が、グローバルな構造を考える上で、最も重要な枠組みであった。19世紀においては、国民国家を形成した西欧国家が、その概念を帝国主義として全世界に押し付け、宗主国と植民地という関係性が生まれた。その後、20世紀に入ると、国民国家の概念が多地域に広がるとともに国家間の対立が激化し、国民国家間の総力戦として、二度の世界大戦が行われた。

この結果、帝国主義的体制は、いわば自滅ともいえる形で崩壊した。それとともに、1950年代以降、旧植民地だった地域が、次々と「国家」として独立した。すなわちこの変化は、西欧列強による支配こそ終焉したものの、国民国家という国家構造が、地球規模でデファクトスタンダード化したものである。そういう意味では、20世紀後半の世界は、近代産業社会と国民国家が、地球規模に広がり定着した時代とも言える。

さて、この時代においては、政治においては鉄のカーテンの「東西対立」、経済においては、先進国と発展途上国の「南北対立」が、主要な国家間の対立構造であった。実は、国家間の対立という捉えかた自体が、国家が意味があった、産業社会のスキームである。ところが、21世紀を迎え、産業社会から情報社会へとパラダイムシフトが起こった。約2世紀にわたって続いてきた、人類社会の基本スキームが変化してしまったのだ。

いま世界に生きている人々の過半数が、この「20世紀後半の、産業社会に基づく国民国家全盛時代」に生まれ育った。それだけに、産業社会のスキームは、血肉化した常識として疑うこともなかった。しかし、実際の世界は、その認識以上の速さで変化してしまった。昨今引き起こされているグローバルレベルの問題の多くは、この現実と認識のズレによって生じたものということができるだろう。

こと、経済問題に関しては、情報社会化のもたらした最大の変化は、グローバル化として、経済活動が国家単位で行われるものではなくなった点である。世の中には、付加価値を生み出せる人と、付加価値を生み出せない人がいる。その中でも、付加価値を生み出せる人に対して、資金が投じられてこそ、成長が得られる。すなわち成長のためには、充分な数の「付加価値を生み出せる人」と、充分な額の「投資資金」があることが前提となる。

産業社会の時代では、このサイクルが国家という枠の中で行われるのが基本だった。付加価値を生み出せる人の数は、その存在確率は人間である以上一定と考えられるので、その国の人口に比例する。そういう意味では、小規模な国でも、それなりに人材が生まれる可能性はある。その一方で、かつては一国の中で資金マーケットが閉じていた。このため、その国の資金力が、ビジネスの可能性を規定した。

一国家の中の資金力は、大国と小国では、桁外れに違う。また、先進国と開発途上国というような、発展段階によっても、大きく異なる。このため、いくら才能がある人材をかかえていても、その人に投資される資金には、国家の壁という人類社会的な制約があった。ある意味で、かつての「南北対立」とは、この国家内で調達できる資金の違いに帰着するものであったということができるだろう。

情報社会になって起こった変化に、資金のグローバル化がある。この、地球規模の自由な資金の移動が起こることにより、投資資金を集める上で国家という制約がなくなった。資金を持つ側からいえば、才能ある人材には、国籍を問わず投資することができる。才能を持つ側からいえば、可能性さえあれば、いくらでも資金を集めることができる。ここに、経済面での国境は消えてしまった。

あとに残ったのは、「付加価値を生み出せる人間と、生み出せない人間」という違いだけになる。国と国との間の「南北対立」は姿を消す。しかし、それぞれの国の中で、付加価値を生み出せるかどうかという基準で「価値の違う人間」が対峙する、「上下対立」生み出される。格差社会化は、日本だけの現象ではなく、グローバル化が必然的に生み出した、情報社会に特有の現象と見なくてはならない。

かつては、経済大国であれば、国内に存在する「付加価値を生み出せる人材」以上に、国内の資金供給のほうが潤沢であった。このため、付加価値が生み出せない人材も、それなりにおこぼれに預かれるチャンスが多かった。これが典型的に現れたのが、高度成長期の日本である。しかし、バブル崩壊以降、90年代の失われた十年を経て、日本が井の中の蛙でいた間に、国際社会は変わってしまったのだ。

もはや、「おこぼれに預かれない」社会となったのだ。だからこそ、今問われているのは、組織と個人の関係である。甘える対象としての、企業や国といった組織あっての自分か。自分が目的を達成するための手段としての組織か。これをわきまえれば、付加価値を生み出せる人材には大きいチャンスがあるとともに、付加価値を生み出せない人間にも、それなりにつつましい生き様は用意されている。

この期に及んで、まだ「寄らば大樹の陰」を望んでいるようでは、身ぐるみはがれて。つつましいチャンスすら与えられなくなるのがオチだ。会社は誰のもの、ではないが、ファンドに対する抵抗感も、本質的には、それがはらんでいる「上下対立」に対する本能的恐れによるものだ。まだどこかにおいしい世界、おいしいチャンスがあるかもしれない。そう夢想するからこそ、現実に抵抗する。先進諸国におけるアンチグローバリズムとは、こういう甘えの発露にしか過ぎない。


(08/06/27)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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