エコとエゴ






いつも主張しているように、日本の大衆とは、基本的に「甘え・無責任」な存在である。かつて、その大衆に人気のあった革新政党や市民運動などは、もともとオピニオンリーダーに責任を押し付け、自分達が責任回避し、免罪してもらうための「甘え・無責任」なシステムである。その代償として「利権の再分配」を求めるシステムとなることで、利権を作る官僚と、そのおこぼれに預かる市民という共犯関係が生まれた。

産業社会・国民国家の時代はこれでよかったし、これが機能した。利権をバラ撒いても、右肩上がりの高度成長により、「後付け」で帳尻を合わすことができた。だが、70年代のドルショック・オイルショック以降、この「黄金の方程式」が危うくなった。対症療法で、何とかこの体制を維持し続けてきたものの、バブル崩壊以降、ついにその命運も尽きることになる。官僚の不祥事や、旧型の政官財の利権構造の崩壊がこれ以降相次いだのも、ワケないことではない。

そして21世紀に入り、産業社会から情報社会になるとともに、自分が無責任に選択したものであっても、それを選んだことにより「結果責任」が生じる時代となった。大衆に支持されない限り、マスとはなれない。逆に、大衆が支持するものが、常にその時代においては「正しい」ものとなる。極めて「民主的」な時代を、情報社会は現出させている。だが、社会全体はまだ、この変化を意識的に捉えてはいないし、新しいスキームへの対応もできてきない。

21世紀型マスの持つ問題点は、中・長期的ビジョンや、全体最適という視点から見て、大衆の支持するものが最適選択といえるという保証はない点にある。というより、そもそも大衆の選択とは、「宵越しの金は持たない」的な、極めて刹那的なものである。大衆の選んだものは、短期的、部分的には最適であることが多いと思う。だがそれは。逆に中・長期的、全体的な最適とは対立することが多いことを意味する。

中・長期的、全体的な最適が必要とされるモノの典型が、「エコ」である。リサイクル、省資源、排出量減少。この三つを取ってみただけで、リサイクルを進めるとCO2排出が増してしまうというように、一つだけを追求すると、他のところで逆効果が生まれてしまうという関係になっている。バランスを取った全体最適を実現しない限り、本当の意味で「地球に優しい」ことにはならない。

いまや「エコ」とは、中・長期的に全体最適がなされなくては意味がない。かつて、エコをめぐるスキームでは、「市民が正しくて、企業が悪」と考えられていた。しかしこれは、企業を糾弾することで、何らかの分け前を貰おうとする、産業社会の時代の、「甘え・無責任」な市民運動の構図である。これが情報社会を前提とした、21世紀型新しいスキームでは、「先進的企業は全体最適を実現できるが、その足を引っ張るのが市民」という構図になる。

偽装事件のミートホープ社の社長が、消費者が質や内容よりも、とにかく安い商品を求めるのが原因だ、と嘯いていたコトも記憶に残るが、ある種、コトの本質がこの発言の中にはある。エコロジカルで排出量も少ない商品は、当然高い。というより、価格破壊商品というのは、ある意味環境への配慮を省略した分、安くなっているともいえる。逆に、環境を考えたコストは、商品の付加価値と考えることもできる。

それでもなお、価格に引っ張られてしまうというのは、エコではなくエゴである。自分の財布の部分最適は考えても、社会や地球を考慮した全体最適には考えが及ばない。自分は部分最適の選択をしたとしても、自分ひとりに責任はない。他のみんなが、エコな選択をすればそれでいい。大衆のホンネの裏側には、常にこのような「旅の恥はかき捨て」「鬼のいぬ間の洗濯」みたいな、自分勝手な論理が潜んでいる。

だが、情報社会となった今では、結果責任は、常に大衆について廻る。エゴを押し通した大衆に、エコを語る権利はない。これからのマーケティングにおいては、直接エコを強調しないまでも、環境を考えた商品を付加価値として販売することで、環境に優しいだけでなく、高付加価値経営を実現することが重要になる。倫理的、道義的な意味だけではなく、こういう経営上積極的な意味においても、エコがますます重要になる時代なのだ。


(08/07/25)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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