オピニオン・リーダー





さすがに今の世の中、2週間同じネタで持たせるのが難しいせいか、自由民主党の総裁選挙も、実際に投票が行われる時点になると、かずかずの事件の前に、すっかり色あせてカスんでしまった。もはや、5人の候補が並んでいても、「あれ何だっけ」「まだやってるの」と思われるのがオチであった。総裁選で話題を作ろうと思ったのだろうが、完全な作戦負けである。こういう移り気な反応は、「大衆が何に注目するか」という関心のあり方が、極めてスピーディーなものになってしまったため引き起こされたモノである。

すなわち社会が情報化し、情報がコモディティー化した「情報余り」の時代になったコトで、情報感覚が磨耗してしまい、情報が新鮮なインパクトを持ちうる期間が、1日とか2日とか、極めて短い時間になってしまったからだ。これは、大衆の情報に対する意識が、高度な情報社会に適応したために起こった現象である。だが、政官やアカデミズムなど、旧態依然としたセンスしか持っていないヒトたちは、この現象を、マスコミの責任にしたがる。

マスコミといったって、今の社会では大衆を動かす力はない。大衆は、本当に自分が楽しいと思うもの、面白いと思うものしか受容しない。つまらないもの、嫌いなものが出てくると、チャンネルを変えるなり、スイッチを切るなりして、接続を遮断してしまう。こうして、情報の消費者という立場からマスコミを動かし、自分たちにとって楽しく面白いものを提供させている「主権者」こそ大衆なのだ。

アカデミックに正しいこと、ジャーナリスティックに鋭いことを主張しても、それに対し、大衆が反応するわけではない。そういうコンテンツに触れたら、チャンネルを変えるかスイッチを切るのがオチである。楽しく面白いとネタにはすぐに反応し、マスムーブメントになるだろうが、アカデミック、ジャーナリスティックなことがマスムーブメントになることはマレな理由はここにある。メディアには、この「大衆の壁」を乗り越えて、情報を伝達する強制力などない。

インターネットを見ればいい。ホームページでも、ブログでも、百家喧騒である。あらゆる事柄に対し、あらゆる種類のオピニオンがあると言っていい。もちろん、数が多くても、「なるほど」とうならせるような鋭い論調は少なく、「トンデモ」論文のほうが多いのはいうまでもないが。とはいっても、絶対数の大きさゆえ、その中には、アカデミックな視点やジャーナリスティックな視点から見て、極めて高く評価できる論調もしばしば見られる。

だが、それらの論調が、多くの人の共感を呼び、多大な影響力を持ったという話は、トンと聞いたことがない。同じように、鋭いからこそマスムーブメントを引き起こしたという話も、ほとんどありえない。少なくとも、それらのどのメッセージに対しても、あらゆるインターネットユーザーがアクセス可能だし、検索エンジンで検索可能であるというのにだ。その一方で、ネタとなるような「トンデモ」話は、けっこう流行ったりする。

実際、インターネットからマスに火がついたヒットや流行というのも、最近では多く見られる。面白いネタには、次々とリンクが張られ、いろいろなところからアクセスする人が集まってくる。お笑い芸人などでも、「YouTubeでブレイクした」という話もよく聞かれるようになった。この例からもわかるように、「インターネット上でアクセス可能」という意味では、同じような広がりを持っているはずの、ジャーナリスティックに鋭いオピニオンが、まったく影響力を持たないというのは、その内容が、受け手の大衆の側の興味とマッチしていないからに他ならない。

実は、オピニオン・リーダーとは、アプリオリ、かつ絶対的に存在するワケではない。かつて高度成長期には、大衆を惹きつける「オピニオン・リーダー」が存在したことは確かだ。だが、それは大衆がその人や論調をリファレンスとしてはじめて、オピニオン・リーダーとなっていた。大衆そのもの、近代社会特有の存在である以上、「大衆の支持」があるものだけが、オピニオン・リーダーとなれた。そしてそれは、大衆が自分の内なる感情を代弁して欲しいという意思を持っていたからこそ、起こったことである。

だから、いつでもどんなときでも、人々がそのヒトについてくるという、「絶対的オピニオン・リーダー」など、存在していなかった。その証拠に、オピニオン・リーダーは、時とともに変わっている。実は、マスコミとは、その変化をフォローしてはじめて、マスたりうる。これは、欧米でも、日本でも、第一次世界大戦後から第二次世界大戦に至る時期の、世の中の「風」の変化を見てみればすぐわかる。それは、厭戦的な雰囲気が好戦的な雰囲気に変わってゆくブロセスである。当初、軍縮を叫んでいたマスコミは、いつの間にか主戦論に変わっている。これは、大衆の求めるモノが、平和から戦争に変わったことの反映である。

大衆の気分など、当時からそのぐらい気まぐれでうつろいやすいモノだったのだ。政治家などで、長期に渡ってオピニオン・リーダーたり得たヒトは、確固とした意見を持って人々を惹きつけたのではなく、マスコミ同様、大衆の気分をつかむのがウマかったということになる。そして今や大衆は、代弁者がいなくても、自分の好みに合った選択を、自らの意思でできる時代となった。この期に及んで、自分が大衆の上に立ち、それをリードしてゆけると思っているヒトがいるとしたら、それは全くの見当はずれといわざるを得ない。


(08/09/26)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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