それ、三界は心一つなりけり





アメリカの経済危機が深刻化して以降、世界の風景は大きくかわった。日本国内の日常生活を見ても、半年前がウソのような変貌ぶりである。為替レートの変化とともに、あれほど街にあふれていた外国人旅行客は、一部の中国からの観光客を除くと、ぱったりと足が止まってしまった。その逆に、海外旅行は何年かぶりの値引き合戦である。とどまるところを知らない観があったガソリン価格の上昇も、いつの間にか反転し、昔のような「価格破壊街道」が復活してしまった。

確かに、世界経済は活力を失っているし、成長を是とする立場からすれば、危機であることも確かだ。しかし、これらは、近代200年で得た「既得権」を失うことの恐ろしさに、皆、右往左往しているだけのことである。産業社会の危機、成長の危機であるかもしれないが、それが即、人類の危機というワケではない。右肩上がりの気楽な生活は失われるかもしれないが、命が奪われるワケではない。それは、ここで失うモノ自体が、虚構の繁栄だからだ。

虚構という意味では、産業革命以来の経済成長も、経済成長が実現した平等な中流意識も、すべてヴァーチャルな夢であったのだ。産業社会とは、タヌキとキツネが、「葉っぱのお金」で騙しあいをしているだけのもの。みんなが「葉っぱのお金」を信奉している間は、それが究極の価値となり、人々が命さえ賭けるものであった。しかし、それはヴァーチャルなゲームである。ゲームはいつか飽きるし、飽きてしまえば、信じていた価値も消えてなくなる。

今起こっていることは、突き詰めれば、産業社会を成り立たせていた「葉っぱのお金」ゲームに対し、みんなが飽きてきてしまったということに他ならない。成金になって、どんなに金を稼いでも、いや、金を稼いだからこそ、心が満たされることがない。これを知ってしまうと、このゲームのバカバカしさが見えてしまう。実際に自分が成金にならなくとも、成金になった人が、けっきょくお金では幸せになれず、破滅してしまう姿を見ていれば、その浅墓さはわかるというものだ。

経済危機といっているが、そこで失うものは、所詮「葉っぱのお金」である。それを信奉してきたヒト、それしかアタマの中に価値観がないヒトにとっては、一大事かもしれないが、考えてみれば、虚構の価値がなくなってしまっただけのことである。そんな「葉っぱのお金」など、人類にとって、さらに地球にとっては、なくてもいいモノなのだ。そんなものに踊らされ、引っ張りまわされていたのだ。なんとむなしいことだろう。

いや、お金とか、そういう即物的な目標がなかった時代のほうが、人間はより心を大事にして生きることができたし、自然の一部として、サステイナブルに調和しながら生きてゆくことができた。欲を持つな、悟りを開け。規模や経済力は、そもそも人類にとって、究極の目標ではないし、ましてや幸せの指標などでもない。幸せとは、今の自分に満足することによってはじめて実現するものなのだ。

持って生まれたモノを越えて、後天的に何とかしようと思っても、悪銭身につかずである。人間の人生というのは、より大きな力により定められたものであり、自分の努力ではどうすることもできない。金も能力も、所詮はDNAを超えられないのだ。まさに、持って生まれたものとは、神様でも阿弥陀様でもいいのだが、唯一絶対な存在により運命付けられたものである。天命に逆らうことなど、不可能なのだ。そういう罰当たりなことなど、考えてもいけないし、ましてややることなど言語道断である。

そういう「性」に逆らい、目先の成功を追い求めても、長い目で見ればけっきょく身を滅ぼす。これが世の定めなのだ。極めて短期的な利益や成長を追い求めるアメリカ型の経営では、ビジネスモデルも、企業自体も長続きしない。日本でも、流通などにおいては、10年単位でトッププレイヤーがすっかり入れ替わってしまうのも、このせいである。利を追わず、地道に自分の分をわきまえ、それをつくす。今という時は、近代の人間が失っていた本来の人間性をとりもどすためのいいチャンスなのかもしれない。



(08/11/28)

(c)2008 FUJII Yoshihiko


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