死語としての「啓蒙」





21世紀の日本社会を特徴付けているのは、大衆が「現状に自信を持ち、満足している」ところにある。現状も、決してベストとはいえないが、現状に対し特に不満がない、という「ほどほど感」があり、あえてリスクを犯しても、より上を目指すというモチベーションはない。安定成長に入って20年、すでに高度成長もバブルも知らない世代が、社会の中枢に入ってきた。

彼らは、そもそも上昇志向を持っていないのだから、上から目線に反応するワケがない。横から目線しか持っていないから、自分と同じレベルのヒトたちしか見えないし、気にも留めない。これは、良いとか悪いとか言う問題以前に、30代より下の世代にとっては、事実なのだ。好むと好まざるとに関わらず、そういう「生きかた」をしているヒトたちなんだ、ということを受け入れなくてはならない。

しかし、高度成長期やバブル期の記憶が脳裏に残っている、40代以上の人々の心の中には、上昇志向が染みついてしまっている。そして、世の中のダイナミクスの基本が、上から目線を持つ「オピニオンリーダー」と、それを模倣して上昇志向を実現しようとする「ヴォリュームゾーン」という構造にあると思い込んでしまっている。だが、そういうモチベーションで動かないヒトたちが、主流になりつつあるのだ。

この問題は、社会のあらゆる現象に現れている。20世紀的な「エスタブリッシュメント」の存在が、多数を占める人々から、無視あるいは嘲笑の対象となっている。自分が「オピニオンリーダー」だと思っているヒトたちは、そういう人たちの間でこそ注目されるものの、社会的には全く存在感がない。そもそも言語が通じていないし、自説を力説すればするほど、犬の遠吠えのようなノイズとしてしか認識されない。

たとえば、政治。21世紀に入ってから、明らかに政治の構造は変わった。バラ撒きの利権で誘導しようと思っていても、現状に不満がないし、より儲かることに関心がない以上、無理である。イデオロギー的な関心もないから、右だ左だと議論しても他人事である。その一方で、エンタテイメントイベントとして、政治を見ている。だから、それが面白いと思えば、怒涛のような流れが起こる。刺客対決、政権交代など、典型的な例である。

法曹界も、世の中から遊離してしまった世界の一つだ。裁判員制度が実施される以前から、法曹関係者の判断と、世間感覚とのズレが指摘されていた。殺人犯が死刑になるかどうか、という判断基準も、その典型的な例だ。殺した人数によって量刑が決まる法曹界的基準は、一般人には理解できない。一般的には、被害者の数ではなく、残虐で功利的なら、一人殺しても死刑だし、犯人の動機に同情しうる余地があるなら、複数殺しても有期刑というほうが納得感がある。

昨今、「新聞離れ」が指摘されているが、これも「ジャーナリズム」の選良的な発想が、一般人の感覚からズレてきてしまったためである。大衆にとって「正しいモノ」とは、自分が好きなモノ、楽しいモノのことである。社会的に、絶対的な善や真理があると主張されても、理解できるワケがない。「上から目線」でモノを語っても、人々には伝わらない。伝わらないどころか、空気を読めず、見当外れの変なヤツと思われるのがオチである。

昨今、お笑い芸人が大ブームである。単にテレビなどで露出が多いというだけでなく、二枚目のスターより人気があり、モテている。さらに、子供たちの間では、地アタマが良く、アタマの回転の速い子供ほど、お笑い芸人になりたがる傾向が強い。お笑い芸人は、大衆と比べれば、明らかに才能を持った少数派だが、彼ら・彼女らは、常に下から目線で大衆の前に現れる。能ある鷹は、20世紀的なエリートではなく、21世紀的なお笑い芸人として登場しなくては、居場所がない時代なのだ。

困ったことに、経済界でも、こういう発想が横行している。日本の製造業が落ち目なのは、先進的な技術を持つ技術者のほうが、大衆よりエラいと思い込んでいる「上から目線」でモノを作っているからだ。技術至上主義に立つ限り、本当の意味でのマーケットインは実現できない。あらゆる技術は、大衆の求めるモノを実現する下僕である、という意識を持たなくては売れない世の中なのだ。

すくなくとも、韓国のメーカーや中国のメーカーは、後発の分、技術至上主義的な日本メーカーに対抗して、顧客をつかむところから参入したことが、今の隆盛に繋がっている。競争力は、決して低賃金だけではない。上から目線の商品ではなく、横から、あるいは下から目線での商品作りをしていることに気付くべきだ。明らかに、日本のメーカーの多くは、マーケティング的に失敗している。

プロや専門家が、大衆を啓蒙する。確かに、20世紀の半ばぐらいまでなら、そういう構図も考えられた。しかし、日本をはじめとする、近代産業社会を推進した「先進国」においては、それはもはや成り立たない。プロや専門家は、大衆の下僕となり、大衆の持つ欲望を具現化できるからこそ、プロであり専門家である時代になった。上から目線は、啓蒙というコトバとともに、歴史の中に消え去るのみ。コトバだけは30年以上前から語られてきた、経済のサービス化・ソフト化とは、そういう意味なのだ。


(10/01/29)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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