多様な倫理観





イスラム信者の女子学生が、学校でヒジャブを着用することがフランスで問題になり、一方的に法律で着用を禁止させようという動きになった。日本における情報は、西欧キリスト教圏発のモノに偏っているため、それが「正しい」オピニオンのように伝えられがちだが、この現象は、キリスト教的価値観から見て「まつろわないヒトたち」をこころよく思わない、という、極めて一方的な見方である。

イスラムの信者にとっては、自然なこと、当たり前のことと思っていることを、違う価値観から頭ごなしに否定しているだけなのだ。食べ物を直接手で食べるのは野蛮だから、おにぎりや寿司も、ナイフとフォークで喰え、と西欧人が主張するようなものである。そんな食べかたをしたら、握りに使われた「極上の大トロ」が、何かもったいないような感じになってしまう。習慣においては、そういう次元の問題が、極めてクリティカルなのだ。

ある意味、自然保護の範疇を逸脱した、宗教色さえ感じさせる、原理主義的な捕鯨反対や動物保護運動も同様だ。そのヤリ玉に挙げられている側はもちろん、理性的な保護運動をやっている人々にとっても、ほとんどテロ活動のような人たちと同類として見られるのは、決して心穏やかなことではないだろう。それぞれの人々には、それぞれの文化があり、どちらが正しいとか、どちらが優れているというものではない。

同様に、一つの国の中でも、地域による違いや世代による違いなど、ことなる倫理観が並存している。日本は「八百万の神」の国なので、存在の多様性に関しては、比較的寛容である。余程原理主義的な主張をしない限り、互いに存在を認めあうのが原則である。イジメや村八分はあっても、「イヤなヤツは即ブッ殺す」という選択はしない。相手が自殺してしまうという選択はさておき、命まで奪おうという発想はない。

たとえば日本の中でも、うどんのつゆが黒っぽいか、白っぽいかは、それぞれの地方に住む人には極めてクリティカルな問題である。両者の境界である鈴鹿峠のドライブインでは、二種類のつゆが準備され、お客さんの好みで選べるようになっている。まあ、うどんのつゆが、命を懸けた揉め事になることはない。しかし、内線や民族紛争というのは、このレベルの「遺恨」が、戦争になってしまったモノである。

とはいっても、このところ、旧来の倫理観の限界が見えてくる事件や事象がよく見られるようになった。そもそも、「社会的な正義や真理がある」と思っているのは、団塊の世代に代表される「アラ還」以上のヒトたちだけである。正義や真理は、その人の好き嫌いや、楽しい楽しくないの問題であり、百人百様である、というヒトたちのほうが、社会を実際に動かしている世代ではマジョリティーなのだ。

特に、日本の新聞は、「世の中の正論を代弁する」というロジックで、自分の立場を正当化してきた。本来ジャーナリズムとは、巷間の輿論がどうあろうとも、自分はこう信じ、こう主張する、というスタンスを持つべきものであり、世の中にすりよること自体がおかしい。だが、明治期の大衆社会の誕生と機を一にして登場した日本の新聞は、常に「数の論理」をバックにしてしかモノを語りえなかった。

このように、自分独自の意見や価値観を持たず、外在的な「社会的な正義や真理」をよりどころに生きていこうというヒトたちの主張を代弁し、支持基盤とすることで、日本の新聞は、海外の新聞が成し得なかったようなサーキュレーションを獲得し、稀代のマス・メディアとなった。朝日新聞、東京日日新聞などは、戦前、すでに300万以上の発行部数を誇っていたことを忘れてはならない。

昨今「新聞離れ」が叫ばれているが、それは「世の中の正論を代弁する」日本的「ジャーナリズム」のよりどころである、外在的な「社会的な正義や真理」を必要としない人たちが年とともに増え、そちらがマジョリティーになってしまったからに他ならない。自分の内在的価値観で「正義や真理」を判断する人には、良識ぶった正論を振り回すだけの「新聞ジャーナリズム」などいらないし、ましてや、それに金を出すことなどありえない。

昨日までの価値観が、今日も通用するワケではない。同様に、隣の人が、自分と同じ価値観を持っている保証もない。自分の価値観・自分の倫理観は、自分自身で担保しなくてはいけない時代なのだ。それはとりもなおさず、自分で担保できる限りにおいては、どういう価値観・倫理観を持とうと、誰も口を差し挟めない時代ということだ。そういう意味では、これからの時代においては、自立した人間かどうかが、一層問われることになるのだ。


(10/02/05)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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