幸せって、なんだ?





20世紀半ば以降の日本の歴史を振り返れば、われわれ日本人が、貴重な社会実験を体験してきたことがわかる。いくら経済が成長しても、心の豊かさは得られないということは、バブルの体験によりわかった。さらに、その右肩上がりの成長すらも永遠に継続するものではないことも、バブル崩壊以降の20年が証明している。成長が夢のまた夢になってしまった今となって、さすがに「幸せ」が議論されるようになってきた。

「幸せ」に関する議論の問題点は、その多くが「ないものねだり」に終始してしまっている点にある。どこかに「幸せ」という状態が存在している。それをどうやって手に入れるか、そこにどうやって到達するか。極めて即物的であると同時に、他律的な発想ばかりである。それはとりもなおさず、日本人の「幸せ感」が、外在的な価値基準に引きずられるものであることを示している。

元来、万物は変化し流転するものである。人間とて、ある価値基準のあるポイントにとどまり続けることはできない。それを前提である以上、絶対的な到達点ではないところに「幸せ」を見出さない限り、「幸せ」を手に入れることはできないのだ。逆に言えば「幸せ」とは、自分が外在的な軸のどこにいようと得られるものであるはずだ。これがわかっていないことこそ、現代日本人の「不幸」である。

国家の目指す方向についても、同じコトが言える。「世界一」とか「大国」とか、常にその座にいなくては意味がないというものではない。特に、一度でも「No.1」になったことがあるものこそ、喜んで後進にその座を譲る器量がなくてはいけない。成長する中国には、抜かれるのが当たり前だ。周りとの相対評価でしか自分を捉えられないからこそ、「No.1」でなくなることに恐怖を感じているのだ。

外在的な軸に引きずられるのは、心が貧しいからだ。自分自身の中に価値基準がないから、自分の心の中に幸せを発見できず、常に外側からの評価によってしか自分を捉えられない。そうなると、よりどころが欲しいがために、いつも外部ばかり気にするようになる。世の中には、全てが自分より優れた人間もいない代わりに、全てが自分より劣る人間もいない。元来、人間の個性は、千差万別なのだ。

ところが、外側に基準を求める人間は、全体の中での自分のランキングを必要以上に気にする。その結果、一つの軸の上で、「自分より上の人間」と「自分より下の人間」という区別をするようになる。「自分より上の人間」に対しては、表面的にはあこがれていても、その裏では、ネタみやコンプレックスを持つようになる。「自分より下の人間」に対しては、表面的には同情しても、その裏では、差別やイジメの対象としていたぶることになる。

このように、日本人の持つ悪い特性は、およそ自分に自信がなく、自分の中に価値基準を持っていないことに由来する。自分の中に価値基準がない限り、どんなに財産があっても、どんなに贅沢を尽くしても、どんなに願いがかなっても、決して幸せになることはない。それは、幸せとは外部的な状態で決まるモノではなく、心のあり方によって決まるものだからだ。自分が幸せだと思うことが、幸せの条件なのだ。

宗教とは、もともと心の中に「幸せ」な気分を作り出すために生まれた。従って、生活環境がキビしい地域ほど、よりストイックで信心深い信者が集まる。実際、多くの世界宗教は、そういう地域で誕生している。日本人が無宗教でいられる前提としては、内面的な「幸せ」を重視せず、外在的なところに「幸せ」を求めようとする傾向が強いということも影響しているだろう。

大切なのは、我慢する心である。とはいっても、禁欲的に我慢することではない。いわば、ポジティブに我慢すること。それは、自分の今の生活の中で、現状のいい所を見つけて、それを大切にすることだ。人類全てが、これができるようになれば、世界は極めて平和で、サステナブルなモノになる。こういう日本の大衆が心の中に幸せを発見できるようになれば、世界中のヒトたちが幸せになれる道筋が示されるコトを意味する。これこそ、日本人の人類への最大の貢献となるかもしれない。


(10/04/09)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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