世のさだめ





能力とは、試験の点数や偏差値を取れるということではない。こと20世紀以降の日本においては、過剰なまでの平等意識をベースとして、学業ができ、試験の点数がいい人材をもって、能力のある人間とみなす傾向が強い。いわゆる「秀才」を評価し重用する傾向は、近代日本においては官僚組織を中心に広く蔓延している。この傾向が、「受験戦争」や「学歴社会」とよばれる弊害をもたらしたことも周知の事実である。

試験で良い点数を取れることが、ある種の事務遂行能力と強い相関があることは認めよう。そういう意味では、オペレーションという面に評価のポイントを置くならば、官僚を偏差値で選ぶことは、必ずしも間違っていない。しかし、それはあくまでも現場作業をこなす能力、いわばスタッフとしての素養でしかない。そういう人間が、リーダーシップを発揮できるかというと、これは全く別次元の話になる。

つまり、ノンキャリアや地方公務員といった現業を担う役人こそ、試験の点数で選んでもいいが、それを統率したり、将来の方針を考えたりするべき人材も、偏差値で選ぶのには問題がある。それどころか、キャリアとノンキャリアという、マネジメントとオペレーションの関係そのものが、学歴・偏差値の産物となってしまっているのが現状である。まさに、何をかいわんやという状況ではないか。

かつての帝国陸軍の失敗は、人材の登用に、偏差値主義をとってしまった点にある。官僚に対しても万能ではない偏差値主義を、もっと特別な才能が求められる軍人、それも将校の採用に関して適応してしまった。官僚組織ですら、そういう人材登用によってウマく動かないものを、軍人に対して用いたのでは、おかしな結果になるのも必然である。試験の点数がいいだけの人間で、戦争に勝てるワケがないではないか。

百歩譲って、平時なら、軍隊も一般の官庁と大差ない。そういう時期なら、軍隊組織も文字通り官僚機構であるワケだから、偏差値主義で採用した人間で構成されていても、一般官庁と同程度のパフォーマンスは期待できるだろう。しかし、自分の出世と既得権の保護にしか興味がなく、そのために自分のリソースのほとんどを費やしてしまうような人間が、イザ戦争となったときに活躍できるわけがないではないか。

確かに、近代以降の諸外国の例をみても、平時に於ては、軍隊もシビリアンコントロールならぬ「官僚コントロール」になっていることが多い。しかし、イザ有事になると、全くその様相が変わる。アメリカ軍がいい例だが、平時と有事では、責任者が総入れ替えとなり、文字通りの臨戦態勢となる。平時では、予算取りや議会対策の答弁がウマい人材が重用されていても、戦争になると、勝ちに行ける人材がリーダーになる。

人気小説「坂の上の雲」などに代表される、司馬遼太郎氏の歴史観などのように、明治期の日本は日露戦争まではスバらしかったが、それ以降、大衆社会化するとともに俗化し、大事なものが失われていくという見方は、今ではかなり広まっている。社会の大衆化という事実ももちろんだが、こと帝国陸海軍に於ては、日露戦争を境に、構造的に見逃せない大きな変化が起こっており、これが問題を引き起こしていた。

それは、日露戦争までは、江戸時代に、士族としての教養や身の振る舞いを身につけたヒトたちが、軍の幹部であったのに対し、それ以降の時代では、士官学校、陸軍大学校という自前の教育機関で優秀な成績をとった人間が、その育ちにかかわらず、抜擢され幹部として軍を率いるようになった。まさに、人格主義だった人材登用が、偏差値主義に変わったことで、軍隊が官僚機構になってしまったのだ。

人間には、ひとそれぞれいろいろな能力がある。ある能力にたけた人が、別の能力でも優れているわけではない。リーダーシップをとるために求められる能力としては、新しいアイディアを思いつく、クリエイティブ能力や、相手を納得させ、その気にするコミュニケーション能力などが代表的である。しかし、これは「秀才」的な試験でいい点数を取る能力とは異なる。

試験でいい点を取る秀才的能力は、全く意味がないと言っているワケではない。そういう人々も、適材適所で使えば、その能力が生きる場面はある。そういう全体最適を実現できる人間であってはじめて、リーダーシップが取れるのだ。その才能を、利権拡大のための詭弁に使わせてしまう時点で、使い道を誤っているとしか言いようがない。そういう意味では、帝国陸海軍の蹉跌は、日本という社会を前提にした、偉大な社会実験だったということができる。そして、その教訓は、今でも決して朽ちてはいないのだ。


(10/05/14)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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