虚構のジャーナリズム





新聞の部数減が止まらず、新聞離れが問題となって久しい。突き詰めれば、それは「少子高齢化」そのものの帰結である。新聞の最大の愛好者だった団塊世代が、定年を迎えてリタイアしたため、現役時代ほどには情報ニーズがなくなった「高齢化」。若者が「社会の動き」に無関心になる以上に、そもそも若者の数が減り市場が狭まっている「少子化」。構造的に、新聞マーケットは縮小せざるを得ない宿命である。

それはさておき、新聞の危機を「ジャーナリズムの危機」とする論調が、新聞関係者自身には多い。だが、それはちょっと見当はずれではないか。そもそも自分の立ち位置を明確にし、そこからどう見えるのかを論じなくては、ジャーナリズムとはいえない。英語でワイヤー・サービスと呼ばれる「通信社」は、情報を迅速に正しく伝えるのが仕事であり、これはジャーナリズムの範疇に入らない。客観性の担保が必要とされるからだ。

つまり、ジャーナリズム足りうるためには、自分ならではの「ぶれない論点」がなくてはならないのだ。だからその逆で、正論ぶったり、良識ぶったりして、テーマによって論点がぶれてしまっている情報機関は、ジャーナリズムとはいえない。極右とか、復古主義とか、極端なイデオロギーを持っているほうが、かえってぶれない。その意見に賛成するかどうかはさておき、そのぐらい一貫したスタンスを持ってこそ、ジャーナリズムだ。

さて、日本の「新聞界」は、今世紀の初め、日本に大衆社会が勃興する時期に生まれた。それまでの自由民権運動の機関紙から、大衆の代弁者という位置づけに代わることで、巨大なサーキュレーションを獲得し、新聞というマスメディアが成立した。この構造を前提にすると、「自分が考える正義」より「多数に支持される論調」を重視しなくてはならない。もとより、自分の主義主張というより、数合わせのポピュリズムを内包していた。

ここで求められたのは、新聞社としての「立ち位置」をあいまいにした「正論」「良識」である、それはかつて、人々が自分の居場所がマジョリティーであることを確認するためのよりどころとして、「正論」「良識」が必要とされていたからだ。他人を基準として、自分が世間から外れていないことを確認する。それが大衆の基本的な行動様式だったからこそ、信頼できるリファレンスとして新聞が必要とされた。

しかし、世の中の情報化が進むと、一次情報と自分の気分だけで安心できるようになる。世の中にあるいろいろな価値観の全体像は、容易に知ることができる。こうなると、どの価値観が自分にとって好きなのか、楽しいのか、気持ちいいのか、それを基準に自由に選べばいい。ついに、マスの生活者は「世間の定説」を必要としない時代になった。こうなると、そもそも大衆が新聞を必要とした理由がなくなる。

「新聞の危機」とは、大衆社会初期にみられた「横並び志向」に迎合し、自ら、「世間と自分が同じ」コトで安心するための道具となることで、巨大な部数を売り上げるビッグメディアビジネスを目指した、新聞社の日本型ビジネスモデルの危機でしかない。日本の大新聞は、マスを目指した時点で、すでにジャーナリズムをヤメている。ジャーナリズムをヤメたから、マスになったのだ。新聞の危機は、けっしてジャーナリズムの危機ではない。

金になるかどうかは別として、インタラクティブな世界は、きわめてオープンでフラットである。そこでは「肩書き」では勝負ができない。「組織力」に頼れない。どんなにエラそうにイバってみても、ハダカの王様になってしまう。大新聞のブランドより、大切なのは、ジャーナリスティックな視点である。ジャーナリスティックなセンスある個人が発信した情報は、それがない大新聞の記事より、よほどジャーナリスティックだ。

部数減とペアで語られることの多いインタラクティブメディアの脅威も、こう考えると、同じマーケットでの直接の競合ではないことがわかる。それは、ジャーナリズムでないのに、ジャーナリズムぶってきた「大新聞」の化けの皮が剥がれるだけのことだ。それでも、まだマスにしがみつきたいのなら、それはそれで方法がある。自らタテマエを捨て、実態を追認すればいい。言論人やジャーナリストぶるのはヤメれば、マス・サーキュレーションのプリントメディアとしては生き残れる。

現状の新聞でも、どうせ多くの人に読まれているのは、折込チラシとテレビ欄だけ。それなら、その部分だけのフリーペーパーにして、全世帯に配布してしまえばいい。圧倒的に巨大なプリントメディアが成立するし、それなりに生活者のニーズ、広告クライアントのニーズにもあっている。ジャーナリズムが欲しいヒトは、情報を金を出して買うだろう。クォリティーペーパーとは、読者が少ないものなのだ。機関紙的なものなら、インターネット上でも有料化は可能だろう。

今起こりつつある変化は、ジャーナリズムが成り立たなくなったということでも、プリントメディアが成り立たなくなったということでもない。「マスメディアとしての新聞」という、大衆社会の形成期に必要とされた存在が、もはや社会的に必要でなくなったというだけだ。日本の大新聞自体が、初期大衆社会を前提にした、ある種の虚構だったのだ。大衆社会が成熟し、超大衆社会となった今、その変化に対応したパラダイムシフトが求められている。新聞の抱える問題は、突き詰めればこの一点に尽きる。


(10/06/04)

(c)2010 FUJII Yoshihiko


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