攻めと守り





このところ、日本の企業、日本の社会が元気がないとよく言われる。それは既存組織が、守りだけになってしまっているからだ。今までにやり方では、時流に合わない。しかし、抜本的な改革はできない。こうなると、おのずと既得権の死守に走るようになる。発送や行動は、内向き、後ろ向きになってゆく。こうなると、あとはジリ貧である。

リーダーシップの欠如といわれることがあるが、それは一面的である。民主社会においては、リーダーといえども、組織メンバーの総意を無視することはできない。そして既存組織のマジョリティーが、既得権者として改革を望んでいないのが現実だからだ。何とか逃げ切ることばかり考えている。

官僚機構が代表的だが、労働組合にしろ、農協にしろ、日本でロビイングを行う「圧力団体」は皆そうであった。今では、民間企業も、その手の組織の代表になってしまったということだ。だからといって、それが日本社会全体の構造的問題ということにはならない。そういう時代であっても、組織に頼らないアウトサイダーであれば、隙間をつく攻撃的な姿勢を取れる。

大きな組織は、その体力を活かして攻めに廻っている間は圧倒的に強いが、守りに廻ると、その大きさゆえ、リソースがいくらあっても完璧に守ることは不可能である。細かい攻撃には弱く、蟻の一穴が各所に開く可能性がある。もっとも、大組織対大組織なら、攻める側も小回りが利かないので、それなりに専守防衛でも太刀打ちができるし、体力勝負の持久戦に持ち込める。それが、「強さ」だと思っていただけのことである。

しかし、守りの大組織対攻めの小集団となると、構造が変わる。圧倒的な軍事力を誇り、大国同士の正規戦にはめっぽう強いアメリカが、対ゲリラ、対テロリストという非正規戦になると、泥沼に入ってしまい抜き差しならなくなることは、19世紀、20世紀の歴史が証明している。これなど、巨大組織対小集団の非対称な攻守の典型的な例だろう。守りに入った日本の組織は、まさにこの状態だ。ゲリラ戦で攻められれば、ひとたまりもない。

アメリカの実業界では、ベンチャーを立ち上げた創業者が、ある程度経営基盤が確立すると、大企業やファンドに売却し、巨万の富を手に入れるケースが多い。「巨万の富」の妥当性はさておき、この「分業」には経済合理性がある。事業がある程度以上の規模になると、それを廻してゆくだけの組織的運営や、資金力、信用力が必要になる。そうなると、ベンチャー企業のような脆弱な組織体では対応できなくなる。

その一方で、大きい組織は、資金力・組織力はあっても、起業力に欠ける。ある程度そだったベンチャー事業を、大手の資本に売却し、さらに拡大するチャンスを生み出すことは、双方にとってメリットがあるwin-winな関係ということができる。また、そのような段階に入った事業からは、創業期のそれにあったようなスリルも失われる。企業家精神に富んだ事業主にとっては、そんな事業はたいくつなだけである。この面でも、メリットはある。

そういう意味では、大組織が守りに入っている今は、とてつもないチャンスである。日本においては、起業のチャンスに満ちた時期がやってきたということだ。やる気のある若者は、大企業に入る必要はない。やりたいことがあるのなら、自分でやればいい。企業に就職したがるのは、「寄らば大樹の陰」志向のヤツだけでいいのだ。企業が元気がないと困るのは、そういう連中だけだ。

資金だって、世の中にマネーがだぶついている時代なのだ。かつてなく調達しやすくなっている。アイディア勝負の事業なら、イニシャルコストが下がっている分、仲間内で集めることも不可能ではない。ひとまず事業をやり、メドが経ったら、企業ごと大企業に売却すればいい。その資金をもとに、さらに大きいことを追求する。わらしべ長者ではないが、やりたいことさえあれば、次々と可能性を生み出せる環境にあるのだ。

まずは、自分がやりたいことは何なのか、それをきちんと自覚することが大切だのだ。それを明示的に持てたら、そこに向かってひとえに突き進むしかない。大企業に入ろうが、公務員になろうが、それで生活が保証あれるわけではないし、やりたい仕事ができるわけでもない。やりたいことがはっきりすれば、大組織に就職したいなどとは思わなくなるはずだ。そう考えれば、やりたいことのある人間にとっては、これからの日本は決して悪い環境ではない。


(12/02/24)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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