科学音痴





大震災、大津波、原発事故と眺めてきて、一番気になるのは、世間一般に科学的なものの見方がほとんどできていない点である。これは別に、ベクレルだシーベルトだマグニチュードだという単位の話でもなく、地震発生のメカニズムや原子炉の構造の話でもない。科学的視点から、何が問題で、その影響はどういうものであり、その可能性はどのくらいあるかという分析が、ほとんど省みられていないのだ。

感情論やイデオロギー論に左右されず、客観的にモノゴトを見つめ判断できる視点こそ、科学の真骨頂である。こういうご時勢こそ、科学的な視点が極めて重要になるはずである。しかし、世をあげてそういう意見が出てこない。それどころか、「学識者」もここぞとばかり、自らの好き嫌いや主義主張をアピールしまくる。ある意味、この「科学音痴」ぶりは。日本社会特有の病巣といわざるを得ない。

久遠の真理を探究するものが学問であり、経験則の集大成は実学ではあっても学問ではない、というのが、イギリスをはじめとして、歴史と伝統を持つヨーロッパ流の考えかたである。学問とは、目的合理的であってはいけないものであり、その「神の意思」ともいえる真理の探求自体が目的となってはじめて、崇高な知的生産となるという考えかたが基本になっている。

この考えかたでいくと、工学や経営学はまさに実学であり、学問の範疇には入らない。このあたりが、アメリカ流のアカデミズムの考えかたと大きく違うところである。日本は文明開化に際し、制度や様式など、形式要件こそ立憲君主国たるヨーロッパ諸国に範を求めた。しかし、運用や実務面では、実はアメリカン・スタディーが規範となっているモノが多い。だからこそ、20世紀に入って米国流の大衆文化が沸き起こった。

それは、「追いつき追い越す」には、当時すでにエスタブリッシュされた欧州より、新興国として伸び盛りの米国の方が、学ぶべきモノが多かったからだ。高等教育もその例に漏れず、お雇い教授陣こそ欧州から招聘したメンバーも多かったものの、カリキュラムそのものは神学から学問が派生した欧州流ではなく実学から始まった。最初に開設された理系の教育機関が「工部大学校」という工学系だったことが、これを象徴している。

けっきょく、この流れがその後も日本の理科系高等教育の流れを決定付け、工高理低ともいえる、工学部中心の流れが出来上がってしまった。総合大学でも、予算にしろ、定員にしろ、圧倒的に工学系の学部の方が強く、理学部はほとんど教員養成学部化しているところが多い。元来実学であるはずの工学がアカデミズム化し、20世紀末になるまで産学協同が実現しなかったのは、この反作用ということができる。

確かに、工学は進んでいる。しかし、所詮それは技術である。技術は進歩しても、それは科学ではない。いかに技術が発達しても、それが科学的な考えかたを醸成するわけではない。いや、技術の発展を追求してゆくと、逆に科学的真理から遠ざかる危険性も高い。それは、技術は進めば進むほどミクロな方へ向かう傾向があるが、科学的な考えかたのためには、常によりマクロな視点をとることが求められるからだ。

昨今、「理系離れ」などというコトバがよく聞かれるが、「離れ」も何も、近代の日本においては、そもそも科学的発想を養い重視するような環境も価値観もなかったのだ。実学であり、技術開発である工学を科学と勘違いし、科学的なものの見方や世界観を養う、真の意味での理科系的な発想を育てるような教育が行われてこなかったからだ。言いかたは悪いが、工学中心では、職人志向の強い学生は集まっても、科学的真理を極めようという学生は集まらない。

それはそれで、近代日本が選んできた道だし、その結果得られたものも大きいのだから、歴史的事実として受け入れる必要がある。ただ、その誤解を引きずったままでは、未来へ繋がらない。工学は、成長期にある新興国には極めて重要だが、成熟した国々にとっては、必ずしも必要とされるものではない。日本という国にかけているモノがあり、それがこれからは必要になる、ということがわかっていれば、あとは時間が解決するのを待つしかない。あせっても仕方ないが、わかっていることが大事なのだ。


(12/04/13)

(c)2012 FUJII Yoshihiko


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