生活者からみた日本の近代史(その3)

「貧しい大衆社会」への道





それでは、人々の生活あり方が、江戸時代以来脈々と続いてきた「伝統的」なスタイルから別れ、いわば「近代的」な日本人のライフスタイルが生まれたのはいつ頃なのだろうか。それは、ちょうど19世紀から20世紀への変わり目のあたり、日本史で言えば、まさに日清・日露戦争の間の時代である。この10年で、日本社会は大きく変わった。そこで醸成された社会のあり方は、その後50年間以上、高度成長期に至るまで日本社会を規定した。

明治維新以来日本がたどってきた20世紀に向かう変化は、政治経済的なマクロな視点からは、ひとまず「19世紀的な近代国家」の確立ということができる。西欧の列強と呼ばれた立憲君主国しての体制を、日本においても構築しようと努力し続けた。それは明治20年代になって実を結び、憲法・議会など 近代国家としての体裁を整えるとともに、条約改正交渉も開始できるなど、一応の成果をもたらした。それと同時に、人々の生活に大きな影響を与える制度も確立していった。

それまで極めて貧弱だった社会インフラの整備も、民間の資金力を利用することで徐々に進んで行った。その代表的なものは、鉄道網の整備だろう。まだまた、主要都市や港湾といった「点と点を結ぶ線」でしかなかったが、主要街道に沿う形で一応幹線鉄道が敷設され、全国レベルのネットワークが形作られた。すでに、日清戦争の時点では、全国に分散する各師団から、鉄道を使って兵員を輸送することで、迅速な配備が可能となっていた。

人々の生活という面から見ると、鉄道ネットワークの成立により、生活に密着する経済圏が、それまでのような藩ごとの経済圏から、全国レベルの経済圏に拡大したことがあげられる。それまでにも、米、酒・醤油、布や糸等の商品については、江戸時代から全国レベルの流通があった。しかし、商品経済に組み込まれているのは、都市部とその周辺で商品作物を作っていたエリアだけ。大部分の農村では、家計に占める自給自足的消費の割合が極めて高かった。

このため、農村部においては、衣食住といった生活の基本パターンが、その土地の伝統的なスタイルにより規定されていた。しかし、鉄道網の整備とともに、農村部においても、それまでの自給自足型の経済生活から、商品を媒介とする経済生活が急速に広まった。それまでは、紡績も織布も家庭内の手作業により行なわれていたものが、機織は行なうが、糸は購入により調達するようになり、さらには、布地自体も出来上がったモノを購入するようになっていった。

近代的な学校制度の導入も、人々の生活を大きく変えた。それ以前の江戸時代でも、寺子屋の普及などにより、庶民の識字率は、世界的に見ても高かった。が、それは読み書き算盤と呼ばれたように、あくまでも社会生活を効果的に行なうための実学であり、体系的なものではなかった。当然、同じ江戸の町でも、この町の寺子屋と隣町の寺子屋とで、レベルは似ていたかも知れないが、内容的に同じ教育が行なわれているわけではなかった。

義務教育制度の導入によりはじめて、同じレベルの教育を受けていれば、同じ内容の知識や体験が(少なくともタテマエ上は)保証されるようになった。それも、全国レベルで一貫していることが大きい。方言ではコミュニケーションできない、他の土地の出身者ともコミュニケーションを図れる基盤が初めてできた。それまでは、漢文や候文の筆談しかコミュニケーションの手段がなかったのだ。これにより、「全国共通」という今までになかった風土を産み出すことが可能になった。

一方、文明開化を推進する高級官僚や技術者を養成する高等教育の充実も、急速に進んだ。初期においては、このようなエリートの養成は、西欧への留学または西欧から招聘した外国人教師による教育が主流だったが、早い時代から日本人が日本人を指導する体制を確立し、エリート層をより低いコストで大量に育成することが可能になった。しかし、あくまでも「追いつき追い越す」ことが目的となった教育は、知識偏重の詰め込み教育となり、成績中心主義の発生をもたらし、後に禍根を残すことになる。

さて、人々の生活を変化させた制度としては、近代的な軍隊の整備と国民皆兵の徴兵制度が、もっとも大きな影響を与えた。軍隊というと堅苦しく、保守的な体質を連想しがちだが、それはあくまでも先進国においてのこと。伝統的社会が色濃く残る社会においては、軍隊が唯一の合理性・合目的性を持った近代的組織なのである。それも庶民が直接参加する近代的組織である。開発途上国では、今でも往々にしてみられる現象だが、軍隊が新しい生活習慣を広める場であり、庶民が組織行動を学ぶ場となっている。

そういう国々では、軍隊が社会的リーダーや政治家といったエリート層を生み出す母体となっていることも多い。当然、19世紀の日本でもその傾向は顕著に見られた、同時に、現場レベルの技術者を養成する場としても、軍隊は大きな役割を果たす。クルマの運転も、その初期においては先端技術であり、それを軍隊で会得し、退役後仕事に活かすという事例も多い。さらに、飛行機やヘリコプターのパイロットの供給源が、事実上軍隊しかないという国もまだまだ多いコトを見ても、軍隊の影響力の大きさがわかる。

軍隊生活が、庶民の衣食住を大きく変えたのも、この時代の特徴である。庶民が洋装を初体験したのも軍隊である。徴兵制がスタートした当時は、たとえば靴を見たことがない兵隊ばかりで、靴の履き方、脱ぎ方から教えなければならなかったが、それでも靴擦れを起こす者が続出して、とても訓練どころではなかったという。それが、日清戦争では、伝統民族衣装に鉄砲だけ持った、アジアの農民ゲリラ兵スタイルではなく、洋風の軍装を使いこなせるレベルに達した。

日露戦争になると、いかに列強としては二流同士とはいえ、帝国主義国同士の総力戦で、まがりなりにもヨーロッパの帝国であるロシアと互角に戦い、判定勝ちに持ち込んだ。すくなくとも、徴兵制とともに近代的な軍隊が生まれてから二十数年で、馬子にも衣装とでもいうような違和感あふれる雰囲気ではなく、きちんと洋風スタイルの機能性を自ら活用できるぐらいにまで、人々の生活感が成長していたという点にも着目すべきである。

食でも、軍隊の影響は大きい。欧米の軍隊の食事の形式を持ち込み、それと日本の食事のスタイルを折衷し、メインプレート、飯、汁の定食スタイルが生まれたのも軍隊食からである。また軍隊でのメニューは、大量に同じものを準備する必要があるコトや、特に艦上では材料の保存性にも考慮する必要があることなどから、それまで伝統的に庶民が食べていたメニューとは、大きく異なるものとなっていった。それは、海外の軍隊食をヒントに、日本で調達できる材料を活用して発明された。

その代表的なものが、横須賀名物海軍カレーだろう。和風のカレーライスは、海軍の艦内食から生まれたものであるが、これは欧米の海軍の用いていたレシピを和風にアレンジしたメニューが生まれた。また、洋風の調理法で、大量に作れる和風レシピも開発された。シチューを和風化した「肉じゃが」などはその典型である。これらの軍隊メニューは、兵役が終わった者達により、全国に広まることになる。また、調理を担当した者が、新たに外食産業のコックの供給源となったことも見逃せない。

日清・日露戦争の時期になると、大衆向けの新聞が大ブームとなる。まさに大衆の支持する「マスメディア」の成立である。日清戦争では、戦況報道ではやくも各紙が部数競争を繰り広げた。この時点ですでに、日本の新聞は、スキャンダラスに大衆の求めるものを提供することで売上を重視する体質が出来上がり、ジャーナリズムではなくなってしまった。しかし、このようなマス指向のメディアの誕生が、「国民」という新しい意識を生み出し醸成する上で果たした役割は大きいといえよう。

それを代表するのは、この時期の議会の変化である。元々大日本帝国憲法下の帝国議会は、納税額による制限選挙からスタートした。従って、議員の大半は、地方の大地主や豪商が占めていた。決して政府よりの士族が中心だったわけではない。このため議会は「アンチ藩閥」であり、自分達の納めた税金の無駄遣いを許さないとばかりに、政府の予算案を厳しくチェックし、常にNoを突きつけていた。地域のメリットにならない軍備費に対しては、とりわけ厳しい矛先が向けられていた。

これが日清戦争の影が見えはじめた頃から、強烈な戦争待望論に変化する。これは戦争により景気が良くなることを期待し、戦争を求める大衆による、萌芽的ポピュリズムといえる。同時に「くに」の意識が変わり、国民意識が生まれたことを反映し、挙国一致を求めることがブームとなった。これは文化という面からは、都市部にしかなかったものが、全国にひろまる基盤となった。さらには、「都会に出て一旗揚げよう」という、大衆社会的な上昇思考を生み出す起爆剤ともなったのだ。


(14/07/18)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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