文化が生まれるとき





21世紀の日本は、「世界の工場」だった高度成長期とは異なり、成熟した文化国家としてのプレゼンスを築かなくては立つ瀬がないというのは、理想とする政治体制や経済システムのあり方に関わらず、共通した認識となっているコトは間違いない。欧州でジャポニズムの一大ブームを生み出し、最後にはモダニズムへと続く道を拓いた江戸文化や、クールジャパンと呼ばれる日本のサブカルに注目が集まっているのは、その証である。

しかし現実は、確かにそれらがブームにはなっているものの、文化国家という面では、今一つ空回りしている感が否めない。ここにこの問題を考える上では、避けて通れない問題がある。それは、文化がどこから生まれてくるかということである。それを考えるカギは、文化からビジネスは生まれるが、ビジネスから文化は生まれないというところにある。組織からは文化は生まれないのだ。

結論から言えば、文化を産み出すモノは、特定の個人の御大尽しかないのだ。後世に残るような文化は、間尺に合わないくらい金をかけなくては生まれない。人類の歴史を振り返れば、それはすぐにわかる。宇治平等院鳳凰堂にしろ、中尊寺の金堂にしろ、国宝や文化財は皆、当時の貴族や支配者が強烈な思い入れを持って、集められる限りの財を投入して形にしたものである。こういう採算度外視は、個人が音頭を取らない限り実現しない。

誤解を招きやすいのは、ビジネスから文化が生まれるように見える場合が存在するからだ。そのような事例は、良く見ていけば、組織ではなく特定の個人が文化を生み出していることがわかる。たとえば、採算度外視で趣味としてやっていたことが、結果的にビジネスになり金を生んでしまった場合である。70年代末、パソコン創世記のソフトハウス等のベンチャーには、こういう事例が多い。

またオーナー企業で、オーナーが自分のやりたいことに、信念を持って収益を御大尽してしまう場合もある。資生堂が薬屋からスタートし、化粧品に進出してブランドを築くまでのプロセスや、トヨタが自動織機の収益をつぎ込んで自動車の開発を行なうプロセスなどは、その例ということができるだろう。これらは結果的に事業として大成功した例だが、死屍類類になって本業自体が傾いてしまった事例も多い。

こうやって見て行くと、こと文化に関しては、日本とヨーロッパの違いが非常に大きいことに気付く。ヨーロッパにおいては、なんといても文化のリファレンスは、階級社会だった頃の「貴族文化」にある。ヨーロッパにおいては、御大尽して文化を作り出し、それを還元することで社会に貢献することも、貴族の社会的な役割の一つだった。その伝統は、今でも奥深いところで通底している。

アパレルのみならず、自動車でも何でも、「高級ブランド」といえば欧州に一日の長があることは誰もが認めている。ヨーロッパの高級ブランドがホンモノであり強いのは、文化を作り出すことに長けた貴族や上流層がまなでることにより、そのクォリティーやイメージが育てられたからである。まさに、ビジネスではなく文化になっているからこそ、格が違うのである。

この構造は、慈善事業や社会貢献においても見られる。欧州の慈善事業や社会貢献は、貴族層のノブリス・オブリジェとしてはじまっている。まさに、それ自体が貴族文化の一部なのだ。だから自然であり、だから美しい。日本のように、儲けすぎた人が罪滅ぼしにやるわけではない。偽善の臭いがせず、自然体のままである。日本でチャリティーのときこれができるのは、皇族と一部のもと上流階級の人だけだろう。

江戸時代は、歴然とした階級社会だった。だからこそ、これと似た構造が成り立っていた。江戸時代には文化が生まれた。そしてそれは、世界へと広がっていくパワーを持っていた。これらの文化を生み出した立役者である蔦屋重三郎の周辺に集まった戯作者、狂歌師、浮世絵師などの中には、武家や大商家の次・三男が多く含まれており、こういう上流の高等遊民が文化をクリエイトしていたことを示している。

ここで江戸時代の文化が特徴的なのは、ブルジョワジーが台頭する19世紀のヨーロッパを先取りしていたところにある。それは上流層に上級市民が多く含まれていた点と、庶民層が比較的裕福で、消費者としてマーケットを構成していた点である。この大衆の持つ合理性がジャポニズムの魅力となり、ひいてはモダニズムの源流の一つとなる原動力になったといえるだろう。

すなわち、貴族文化的であると同時に、大衆文化性も併せ持っている、両面性があったのだ。文化は文化であるが、大衆文化・消費文化に繋がる要素も入っていたということができる。クリエイターである「おたく」と純粋消費者である「オタク」の同床異夢を思わせるような関係性が、ジャポニズムの中にすでに内包されていた点に、日本発の文化のあり方を考えるヒントがある。

日本発の文化は、スノッブな文化にはならないし、なりえない。だが、その分商売になりやすく、商業主義的になりやすいという危険性がある。ここをしっかりと踏まえておく必要がある。霞ヶ関が「クールジャパン」とか言い出したとたんに、文化の話ではなくビジネスの話になってしまうのは、そのためである。ビジネスにする前に、まずは文化として世界で評価される存在にならなくてはダメなのだ。

そもそも庶民上がりの秀才では、文化を作り出すのは無理。それは、企業人でも官僚でも同じこと。こういう人達は、自分でやっちゃダメなのだ。蛇の道は蛇。金は出すが、中身はそういう道に長けた相手に任せればいいだけのことだ。アメリカの投資家、ベンチャーキャピタルとか、みんなそうやっている。生まれや育ちの違いは、努力ではどうしようもない。秀才の方々には、そこだけはきちんと理解していただきたい。


(14/09/19)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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