互恵の精神





人々が自由を満喫できるためには、その裏側に「互恵の精神」がなくてはならない。誰もが等しく自由になってはじめて、自由な社会であるといえる。誰か一人だけが自由に振る舞い、あとのみんなが我慢するというのは、ワガママであって自由ではない。しかし、現実的にはそのような状態を「自由」とはきちがえている人が多い。それは、子供が駄々をこねている状態であって、自由ではないのだ。

典型的なのが、いつも例に出している「言論の自由」だろう。自由の中でも言論の自由は、が、一番実践しやすいはずなのだが、実は守られにくいからだ。言論の自由がある以上、自分の意見を好き勝手にいう自由はある。ただ、それには一つだけ前提がある。それは、自分が好き勝手に意見したい人は、他人の好き勝手に意見する自由を認め尊重するということだ。自由とは、全ての人が自由にできてはじめて成り立つ。

誰かだけが自由で、他の人は不自由という、片務的な関係ではいけない。しかし、こと言論の自由に関しては、そういう片務的な状態に持ち込もうとする人が多い。言論の自由を標榜している以上、ナチス支持だろうと、ヘイトスピーチだろうと、差別発言だろうと、言うのは自由でなくてはおかしい。内容によって制限が加えられるのであれば、制限が加えられた時点で、もはや自由とはいえない。

問題は、片務的でなく双務的な関係を作れるかどうかだ。自分の意見を勝手に言いたい人は、どんな他人にも勝手に意見を言わせてあげなくてはいけない。別に、それを聞くか聞かないかはどうでもいい。言わせるチャンスを与えないのは、身勝手である。内容がいやなら、言わせておいて聞かなければいい。言うのも自由、聞くのも自由である。これなら、何も問題は起きない。言論の自由の本質はここにある。

複数のお客さんのグループが入ってるカラオケスナックで、マイクを独占したら総スカンを喰らう。言論の自由も、それと同じことである。問題は内容ではなく、形式だ。それさえ守れば、平和共存できる、全ての言いたい人に、言うチャンスを与えれば、それでいい。別に、他人の意見を聞く必要も義務もない。いかに自分にとって都合の悪い意見でも、自分が理解できない言語で語られる分には、まったく気にならないではないか。

本質はこれだ。聞かない、気にしない、である。これが出来れば、棲み分けが可能になる。自由とは、誰かに守ってもらう権利ではない、その社会の構成員一人一人が、自ら互いに担保しあってはじめて実現できるのが、自由なのだ。それを認め合う努力をしている限り、なんびとのオウンリスクも認められる。言い換えれば、自由とは、相手の存在を脅かさない限り、互いに相手の存在を認め合うことである。

だから、誰かに権利を保証してもらおうという発想自体、「自由」とは相容れない。自由を認めることは、すべての存在が対等であることが前提となる。そこには、権利を保証するような超越した存在はあり得ない。自由は、すべての構成員が、相互に保証しあうことによってしか、担保されない。この互いに保証しあうという発想は、ある意味民主制の原理でもある。

このあたり、すなわち近代社会における権利と義務の関係は、多くの日本人が根本的に誤解している。というより、都合よく解釈しているといった方がいいだろう。だから、権利ばかり主張して、義務を果たそうともしない人が多い。違うのだ。権利とは与えられるものではない。自ら勝ち取り、作り出すものである。そして、それを維持するには、莫大なエネルギーがいる。

しかしなぜか、リベラルを自称する人ほど、ここがわかっていない。自分だけが正しく、対立する相手は人格、存在まで全否定しがちである。自称ではなく、本当のリベラルというのは、多様性を認め重視するはずである。自称リベラルな人は、多様性が共存することを自ら否定している。極めて十字軍のキリスト教的、攻撃的である。権利だけを主張し、義務を果たさない独善性が感じられる。

本来リベラルとは自由主義であり、自由競争に基づく市場原理を重視するはずである。しかし、日本でリベラルを自称している人々の多くは、なぜか社会主義者、全体主義者である。ここに独善的になる理由がある。そしてそうなった裏には、政党政治が崩れ、大衆ポピュリズムを基本にした、官僚主導の40年体制が成立するに至った、昭和初期の歴史の流れがある。

貧しい人は、心も貧しくなる。そして互恵の精神は、心が豊かな人の間でしか根付かない。日本では、貧しい人ほどお上のバラ撒きを期待する傾向にある。そして昭和前半の開発途上国だった時代においては、貧しい生まれから成り上がれるチャンスは、秀才が勉強をがんばって高偏差値をとれば、地位と権力が得られる、官僚と軍人だけだった。

努力すればなんとかなる、というのは、単なる精神主義の慰みである。0に何を掛けても0なように、才能のない者がいくら努力したところで徒労に終わる。生活のレベルも同じ。いくら金が湯水のごとくあっても、成金は成金。金メッキは見る人が見ればすぐにわかる。つまるところ、互恵の精神を持てるかどうかである。それも、前頭葉の理性でコントロールするのではなく、人間の本性として染み付いているかどうか。

認知症になってボケると、理性が失われ、本性があらわになるという。介護士さんに言わすと、育ちのいい人は、痴呆老人になっても、履き物をきちんと揃えて脱ぐので、すぐわかるという。それと同じである。貧しく育つと、俺が俺がと自分のことしか考えられず、互恵の精神などその本性の中には微塵もない。そういう連中は、自由を語る権利もないし、自由を実践することもできない。主義主張を聞く前に、こういう人品を見抜くことが大事なのだ。


(14/11/28)

(c)2014 FUJII Yoshihiko


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