知識は知恵を越えられない





世の中、新しいものが現れると、その本質が理解できず必要以上に拒否反応を示すヒトが多い。ワリと最近では、「ドローン騒動」で慌てたリするのが典型だ。これは別に今に始まったことではない。少年マンガ雑誌が登場すれば、マンガを悪玉にし、テレビゲームが登場すればゲームを悪玉、携帯電話が登場すればケータイが悪玉になる。この対応は、まさに十年一日のごとくという比喩がピッタリである。

これは、今上げたような教育的道徳・倫理観が絡むものだけでなく、ビジネスにおいてもしばしば見られる。1980年代にCATVや衛星放送が登場して以来、ニューメティアブーム、マルチメティアブーム、インターネットブームと、何度も「狼少年」が登場した。その中で、地上波テレビは必要以上に新しいメディアを警戒し当惑するのを繰り返してきた。しかし、今やオンラインゲームやeコマースが、地上波の最大の広告主になっている。

ある意味、これは「知識」でモノを捉えようとする限り逃れることのできない「業」のようなものである。知識とは、過去の経験の蓄積である。過去に起こった事例や、それに基づく演繹的な類推から判断できるものであれば、知識は有効な武器になる。しかし、今まで似なかった「想定外」なモノや事象に対しては、知識は全く歯がたたない。かくして知識で判断できないからこそ、新しいものは不安になる。

ある意味、これは「最近の若い者は」という嘆きではないが、歴史と共に何度でも繰り返される偉大なるマンネリである。人類の特徴の一つが、知識を継続的に共有できるところにある。だからこそ、文明を作り、歴史を作ることができた。だが、知識の体系が重くなりすぎると、今度はそこから逃れることが難しくなる。知識があるからこそ、新しい発想ができなくなり、新しい事象を受け入れチャンスとして生かすことができなくなる。

自分でモノを考え出せる、知恵を持った人間は、新しいコトやモノに遭遇しても、それにどう対処すればいいか、自分で考え出すことができる。知識がなくても、ゼロから答えを思い付けるのだ。しかし、知識から演繹的に物事を判断する秀才は、自分の知識の枠を越えた事態には全く歯が立たず、手も足も出ない。社会が秀才型でできているからこそ、既存の知識で対応できるかどうかがわからない新しい事態に直面した時には、狼狽し、目をそむけてその存在を否定しようとするのだ。

秀才が意味を持った時代も確かに存在した。産業革命以降の近代社会においては、人類史上かつてなかったほど、科学技術が発達した。この時代においては、同時多発的に新しい発見や発明が生まれるため、自分で答えを導き出すより、誰かが見つけた答えを学ぶ方が効率よかった。さらに必要とされる情報が飛躍的に増えた反面、情報処理の技術は未熟だったので、こういう知識に長けた秀才が重用されたに過ぎない。

20世紀の末になって、技術進歩の到達点として、情報化社会が到来した。知識の本質である情報は、人間が取り扱う以上に、機械により高速で大量に処理できるようになった。知識は機械で処理できるし、機械で取り扱った方が余程効率が良い。これとともに、「知恵」が問われる時代となった。しかし、これでは「知識」に卓越した秀才は立つ瀬がない。その割には、秀才の数は多いし、特に組織においては、それなりのポジションを占めていたりする。

そういう意味では、意識的か意識下かはさておき、最近の情報化に対する拒否反応は、世の秀才族が、自らの「椅子」が脅かされていることに対するアンチテーゼと考えることもできる。しかし、それでは単なる守旧派に過ぎない。時代や常に変わるし、時代とともに消え去るものがいることは世の常である。新しいものを恐がるのは、知識に根差した秀才。新しいものに積極的に取り組むのは、知恵に根差した天才。次の時代を担ってゆくのは、もはや秀才ではない。


(15/07/31)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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