画一性か多様性か




産業社会が社会構造の基盤となっていた20世紀の社会においては、画一化によるスケールメリットの追求が最も効率的であった。当時からすでに少品種大量生産よりも、多品種少量生産の方が、商品1単位当たりの付加価値は高くなることは分かっていた。しかし、生産技術の進歩より情報処理技術の進歩のほうが遅れたため、付加価値や利幅は小さくても、数で利益総額を拡大する手法の方が、現実的で手っ取り早かったのだ。

だから、プロダクト・アウトがまかり通ったし、「(生産者が思う)いいモノ」を安くという論理が正当化された。この時代においては、数こそ正義であり、力であった。この時代においては、多様性は無駄であり、画一性こそが追求された。これが社会規範となったため、多数決の論理も「二項対立のどっちを取るか」という、スケールメリット追求のロジックとなりがちだった。いつも指摘しているように、これは一神教の教義を極めて親和性が高い。

マックス・ウェーバーが指摘したように、プロテスタンティズムの予定説の持つ現世における勤勉性が、近代社会の社会規範を築く上で大いに貢献したというのは、日本においては、同じく予定説的教義を持つ浄土真宗が盛んだった西日本で近代的な経済発展が進んだという事実とも整合し、重要な指摘であろう。しかし西欧近代の成立には、キリスト教自体のルーツとしての一神教的な「All or Nothing」の選択という発想も大きく貢献している。

しかし21世紀に入り社会の情報化が進むと、スケールメリットの追求が必ずしも利益を拡大する最高の方法ではなくなった。個別のニーズに合わせたきめ細かい生産が可能になった。さらに多品種少量生産で生まれる、いわゆる「ロングテール」市場は、マスをターゲットトする「ショートヘッド(これは今では知らない人が多い)」市場より、圧倒的に付加価値が高い。オタクマーケティングに強いアマゾンではないが、ロングテールを押えたものが圧倒的な利益率を実現できる時代になったのだ。

つまり、21世紀は「多様性こそ大切」な時代になった。多様性とはすなわち、いろいろな価値観の共存である。21世紀においては、自分の意見を相手に押し付けたり、あるいは自分の意見を我慢して多数に同調したりするのでなく、いろいろな意見が互いに干渉することなく存在しあえる社会こそ理想なのである。ところが、20世紀的な画一性とスケールメリットの中で育った人間は、なかなかそこから発想を切り替えることができない。

これは、多数派の側にも、少数派の側にも、共通して見られる現象である。多数派のほうは、いわば「画一性」に関する既得権があるので、それを手放すまいとして古臭い二項対立を引っ張り出し、どっちを取るかという選択に持ち込みたがるのは、その正当性はさておき、気持ちとしてはわからないわけではない。しかし少数派の側も、同じように多数派の意見や存在を否定し、果ては多数決の論理自体に対してNoを唱えるというのは、いささか理解しがたいものがある。

ゲーム理論を持ち出すまでもなく、少数派であればまずいろいろな少数派が並存できるようなスキームを構築しないと、自分で自分の首を締めることになる。マイノリティーこそ、ダイバーシティーというか、多様性を尊重し合い、いろいろな価値観を持つ人々が共存できる社会を目指すべきである。マイノリティーの側は、「多数派が間違っていて、自分達こそ正しい」ではなく、平和的に多様な価値観が存在できるスキームを構築するのが最適解となるはずだ。

しかし現代の日本においては、マイノリティー、とりわけその中でも「リベラル」な人ほど、自分と異なる価値観やオピニオンの存在を許さない傾向が強い。被害者意識が強く、心が貧しく余裕がないので、原理主義的になってしまうのかもしれないが、極めて残念なことである。けっきょくこういう意識や志向が、運動の幅を狭め、多様な価値観をもつ人達の間で生まれなくてはいけない連帯感を否定してゆくのだ。

逆に自由主義を信奉する保守主義者の方が、多様性を重視する心の余裕がある。それは、多様性こそ、自由競争の原点だからだ。そう、まさに自由競争がなりたっているかどうかが、多様性に関して一番違いが現れるところ。機会の平等か。結果の平等か。履き違えている人が多いが、多様性とは機会の平等のことであり、結果の平等のコトではない。だが、これも「リベラル」な人達は大いに勘違いしている。

機会の平等とは、誰にも出場のチャンスがあることであり、誰もが出場できることではない。マーケットでいえば、変な規制とかがなく、誰でも参入できる状態のことである。誰でも成功できることを保証するものだったり、誰にも同じ分け前が得られるということではない。それはもはや、結果の平等であり、公平ではないのだ。ここがわかってない人が多い。「リベラル」な人は、けっきょくバラ撒きにありつきたいだけだのだ。

答えは簡単である、自分の存在を相手から認めて欲しければ、自分も相手の存在を認めるのが前提になる。自分は相手を認めないまま、相手に自分を認めさせるというのは、余りに勝手なエゴである。しかし、それが罷り通ってしまっているのが、「リベラル」な人達の主張なのである。これはどうかんが得ても一方的でおかしい。世の中、自重互恵が基本である。自分がされたくないことは、相手にしてはいけない。自分がして欲しいことは、相手にもする。これが分かっていないというのは、本当に嘆かわしい限りである。


(15/11/06)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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