民主主義の悪影響




昨今のようにSNSなどのUGMが普及し誰でもIDを持つような状況になると、インタラクティブなコミュニティーも、リアルなコミュニティーも、その実体は全く変わらなくなる。唯一違うところは、インタラクティブな空間では直接自分の姿を晒さなくてもコミュニケーションできるので、自分が傷つく心配がなく、その分よりホンネが強く出てきてしまうというところぐらいだろう。

最近では、リアルでも「ヘイトスピーチ」をする人間も増えてきたが、誰でも平然と差別発言ができてしまうというのも、ヴァーチャルで匿名的な世界ならではである。日本人の常で、人から見られている、チェックされていると思うと自制心が働き、表面的には「いい子」であろうとする。従って、リアルな世界では、心の中では何を思っていても、表にそれを出すことはほとんどない。

実は心の中に強烈な差別意識を秘めている人でも、現実社会の場ではそれを表に出すことはほとんどあり得ない。どす黒い心を裏に隠し、「私には差別意識はない」とばかりにいい子ぶる。もっとも、差別意識自体が当人のコンプレックスの裏返しであり、そういう人々には面と向かってホンネを言う勇気もないというのも事実ではある。かくして、表面的には「いい子」「いい人」ばかりになる。

世の中に「自主規制」が横行するのも、これが原因である。自分の本心がどんなものであっても、形式的にそのルールを守っていれば、外見的には差別をしていないことにできる。そもそもハラスメントと同様、言葉そのものに善悪があるのではない。たとえば相手を「ハゲ」と呼ぶことなどが典型的だが、相手との関係性によって、同じ言葉が親しみを込めた言葉にも、侮辱の表現にもなりうるのだ。

すなわち、もともと差別意識がない人間の発言ならば、言葉狩りをして気をつけなくても、相手に対する悪意や差別にはならないのである。だから、本当にダイバーシティーを重視する人達は、表面的な「言葉狩り」には反対している。それは心に秘めた差別意識を見えなくするだけであり、差別の解決には決してならないからだ。問題は表面の見てくれより、心の中をどうするかにある。

そういう意味では、表面的に差別や見下しがあまり見られない社会になったといっても、水面下では何も解決していない。そういう潜在的差別者が過半数を占める社会でUGMが普及してしまうと、ついついホンネが噴出してくることになる。まさに日本語のtwitterなど、昨今はこの状況である。これに輪をかけて問題をややこしくしているのが、日本人のコミュニケーション力の弱さである。
v UGMにおいては、キチンと自分を持ち自分の意見を語れる人はいいのだが、集団の中の一人という形でしか自分を認識できず、誰かの論調を借りなくては自分の意見が言えない人は、居場所を作るのが極めて難しくなる。そもそも、日本人には前者の様な人は少なく、そのほとんどが後者のような人である。そして、UGMの大衆化に伴い、その利用者も過半数が後者のタイプになってきている。

そこで起こったのが、「とにかく数の多い側に固まる」という現象だ。そしてそれは少数者を叩くことで、自分達が多数であることを確認するという行動を生み出す。「叩きやすい少数」がいると、それを寄ってたかって叩きまくることでしか、自分達が多数者の側であることを確認できない。これはまさに「イジメ」と同じ。イジメに加わることが多数派の証、連帯の証になっている。

この「多数派こそ正義」というのは、間違いなく「戦後民主主義」の悪影響である。弱虫でもマジョリティーになれば強くなれる。ミツバチは巣に侵入してきたスズメバチを、布団蒸しのごとく取り囲んで、熱死させてしまう。それと同じで、「一人一人は弱くても、固まれば強くなれる」とばかりに、とにかく群れたがる。とはいえ、集まるだけで、核になる存在も明確な主張もない。

まあ、こういう連中は言わせておけばガス抜きにはなるので、無視してほっとくのが一番である。変に相手したり、腹を立てたりしたら、同じ穴のムジナである。実際、ムジナ同士でよく喧嘩しているではないか。わかっている人は、近寄らなければいい。「金持ち喧嘩せず」である。UGMは、普及する前のアーリーアダプタだけの時期が面白いというのは、パソコン通信以来、何度も繰り返された社会実験から得られた貴重な知見だと思うのだが。


(15/12/04)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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