新しいものが拒否されるワケ




古代エジプトの文章に、すでに「最近の若い者は…、」という文章が書かれていたという話は良くネタにされるが、それと同じくらい古い歴史を持つのが、新たに出てきたモノやサービスを拒否し、悪と決め付ける現象である。これははっきりいって理性的・論理的な反応ではなく、生理的な拒絶に基づくものである。そういう意味では、多分現生人類に進化する前から脈々と続く伝統があるのだろう。

人間、それも長く生きて経験を積んだ人間ほど、新しいものを恐がり、拒絶する。この傾向は、世の中の変化が激しくなった近現代になってから、特に顕著に見られるようになっている。テレビが登場すれば、テレビを悪の権化にする。マンガ雑誌が登場すれば、マンガを悪の権化にする。ゲームが出てくれば、ゲームを悪の権化にする。ある意味、これはもうおきまりの定型的反応といってもいいだろう。

パソコンもそうだし、スマホもそうだし、ドローンもそうだし、全く同じパターンが繰り返される。とはいえ、普及するものは普及する。というより、こういう拒否反応は、ある程度普及率が高まり誰でも手にするようになってはじめて起こる。一部のエッジなアーリーアダプターだけが使っている間は、問題になることはない。この問題を考える鍵の一つは、この「一般的に普及すると、拒否反応が顕著になる」というところだ。

新しいものを悪の代表とし、拒否する理由にする。新しいものが嫌いな理由を考えるためには、この「なぜ生理的に拒否してしまうのか」というメカニズムを掘り下げる必要がある。とにかく、イヤなのである。敵なのである。だから、悪の代表にして否定したい。「使いかたが良くわからない」というのは、理由ではない。別にこういう新しいものは、無理して使う必要はないので、使わなければいいだけである。

特にデジタル化してからの新商品・新サービスは、差別化のポイントが「ウマい(手軽)、安い、早い」の吉野家効果なので、手間とコストと時間を掛けさえすれば、レガシーナアナログサービスでも何ら困ることはない。最後に人間系とのインタフェースがある以上、モノやサービスはアナログのリアルな世界から切り離すことはできないからだ。だからこそ新サービスは、使いたい人が使えばいいという基本的性質を持っている。

では、拒否反応を生み出す原因は何だろうか。それは、新しいモノやサービスを使いこなすことで、「新たな峻別の軸」ができるところにある。たとえばスマホだって、その利用のほとんどは、ゲームをするか、おバカ映像を見るか、SNSのたわいもないネタを読むか、要は暇潰しである。昔の人が電車の中で、週刊誌やスポーツ新聞を読んだり、ヘッドフォンで音楽を聴いたりしているのと同じである。わかっている人にとっては、質的になんら差がないことは良くわかる。

しかし、コンプレックスを感じやすい人にとっては、理解が違うのだ。なんかスゴいことをやっている。また、差がついてしまう。そうどちらも「大衆」である以上、実は差などない同じ穴のムジナなのだが、こういうコンプレックスの塊のような人達にとっては、形が違うだけで「理解できないスゴいもの」になってしまうのだ。結局理解できないのは自分だし、そうであるがゆえに、ある種杞憂のように恐れおののいてしまう。

こうなると、新しいモノやサービスは、とにかく避けたいし、見たくないということになる。確かに結果的には峻別の軸が増えてはいる。しかし、それは本質的なものではなく、自分の劣等感が引き起こした幻影なのだ。こういう人は、心霊スポットに行くと、風が吹いたり、がさ後そ物音がしただけで、恐怖心はMaxに達してしまうのだろう。そうすると、心の中に出てくるのだ。幽霊が。全くこれと同じである。

自分の弱い心と闘って、自分に負けているのである。なんといっても、そこまで普及したものは最後には「常識」となり、インフラ化する。それが、大衆社会の掟である。そこに棹射すのは無理なのだが、変に良識ぶったり、権威ぶったりする人ほど、こういうコンプレックスが強い。まあ、肝っ玉がちいさいから、良識や権威にすがるということなのだろうが。所詮、無駄なあがきである。まあ、ザコのあがきほど駆除に手間がかかるのも世の常ではあるのだが。


(15/12/18)

(c)2015 FUJII Yoshihiko


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