Gallery of the Week-Jan.00

(2000/01/28)



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ビバリー・ゼムス展
ザ・ギンザ アートスペース 銀座
ちと今週はスケジュールがハードで、どっか見に行く時間がない。となると、決まって登場するのが銀座周辺のギャラリーだが、今週に限ってこれという出し物がない。そういうわけで、興味があるんだかないんだかさえわからないまま、ザ・ギンザ アートスペースに入ってみる。やっていたのはビバリー・ゼムス展。布を使ったインスタレーションで知られる(らしい)、ニューヨークの女性アーティストである。
ザ・ギンザ アートスペースの全空間を贅沢に使ったインスタレーション。一点豪華主義というか、アートの瞬間芸というか、ある種のインパクトは感じる。得意とする、黒い服が変形して布のインスタレーションにつながる作品が、大胆に拡がっている。しかし、そのビジュアルインパクトはさておき、それ以上に伝わってくるモノがない。何をいいたかったのか、よくわからない。
アメリカ人だったり、女性だったりするとわかる何かが秘められているのかもしれない。しかし、そういう枠組みを越える何かがあってこそアートなのではないだろうか。まあ、何といってもこその一点の他は、ビデオ、または写真に収録された作品が展示されているだけなので、これだけでは何ともいえないのも確かだが。
皮肉な言い方をすれば、ある種の現代アートの閉塞感を示しているといえないこともない。裸の王様は、服を着ないことで、彼の内面が空っぽであることを世間に示した。この作品はもしかすると、服を展示することで、現代美術の内面が空っぽであることを世間に示しているのかもしれない。



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「終焉と胎動」マグナムフォト創設50周年記念写真展
西武ギャラリー 池袋
20世紀のフォトジャーナリズムを代表する写真家集団、マグナムフォトの過去と今を見せる写真展。89年のベルリンの壁崩壊以降、世界各国でマグナムフォトの会員が撮影した作品を中心に、過去のマグナム会員の代表作も網羅している。確かに、LIFE誌に代表されるような、古き良き時代のアメリカフォトジャーナリズムを思わせる視点が、今も息づいていることを感じさせる作品が並ぶ。
そりゃカメラを持って、最前線の戦場に赴き、文字通り命がけで「決定的瞬間」をモノにした勇気と努力はスゴいと思う。でも、それとその作品の意味性とは決してイコールではない。ファシズムに対する連合軍の戦いであった、第二次世界大戦。東西両陣営の覇権を賭けた冷戦の時代。こういう状況下なら、ある種のマスヒステリーと言うかアジテーションも意味を持ったし、それが社会的正義としてもろ手を挙げて受け入れられたかもしれない。しかし今は違う。社会的正義など、一部のアメリカ人の思い上がりでしかない。世の中には個人的正義しかないし、それはどちらが正しいというモノではないはずだ。
同じように、死体や障害者の姿を見れば誰しも暗い気持ちになるし、病人や怪我人の姿には同情を感じる。しかしそれはあまりに紋切り型の反応を誘導しているだけなのではないか。たとえば民族紛争なら、戦闘へと両サイドを導いた「それぞれの正義」があるはずだ。しかし、その写真からはそういう立体的な姿は見えてこない。タマを撃った方が悪い、殺した方が悪いといわんばかりの、思考を停止させる意見の押しつけだ。これではファシストとかわらない。
やはりこれらの問題は、自分こそが正義という、古いカタチのジャーナリズムの視座が今や通用しないものになってきてしまったことの証だろう。そういう意味では、21世紀を前に、きわめて見どころは多い。「終焉」は、良識や社会的正義を語るジャーナリズムの視点。もちろん、フォトジャーナリズム自体がここに含まれる。そして胎動しているのは、もっとプライベートな一人一人の良識や正義ということなのだろう。
そういえば先頃高校時代の親友とmailのやりとりがあり、25年ぶりぐらいでコミュニケーションを持った。そこで、まだ学園紛争の残り火とかあった高校時代に「偽善者」というあだ名のヤツがいたという話になった。そう、もう死語になってしまったそのコトバを借りれば、ジャーナリストってけっきょくは偽善者でしかない。まさにWeb的な方法論の対極にある。20世紀とともに消えてゆく彼らの墓碑として、数々の名作は文字通りこの世紀を代表し続けるのだろう。



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ご即位10周年記念展 皇室の名宝 美と伝統の精華
東京国立博物館 上野
正月気分も吹き飛んだ正月第二弾は、これまた正月らしいネタ、皇室の名宝。御物や、三の丸尚蔵館、宮内庁の所蔵品をはじめ、各国立博物館の所蔵品の中から皇室に縁のある品々を集めた展示。しかし、なぜか正月と皇室はイメージ的にマッチする。数々の伝統行事はさておき、その存在自体がそこはかとなく正月を思わせる。昭和時代のあまりに非日常的な正月から、最近ではちょっと長い週末みたいなアットホーム感じになってきたのも、国民とともにをモットーとする今上天皇の人柄の賜物なのだろうか。
さて、今回は雨の中いったのだが、あなどるべからず。炸裂する老人力(笑)。NHKのパブリシティーが効いているのだろうか、人生のベテランたちがいるわいるわ。で、老人力なモノで、行列がなかなか進まない。絶対人数より、そのヒマさに任せたあまりに着実すぎる足取りのなせるワザ。いやあ、おかげでなかなか近くで見られませんでした。溶岩流がそこにあるようなモノなので。
内容は、考古、肖像画、律令時代から中世の書と美術。近世以降の美術と工芸と実に幅広い。おまけにハデなモノより、渋い作品を中心の選び方。これは上級コースだ。日本の有史以降現代までの美術、工芸の知識が必要なのはもちろん、日本史、文学史、文化史みたいな領域まで造詣がないときちんと理解できない。この作品の位置づけを200字以内で論ぜよ、みたいな記述式の問題はこの分野得意なつもりだが、それでもこりゃ書けないってのがかなりある。それだけ難しいということなのだろうが、アカデミックなイメージの強い、20世紀後半の天皇家を考えると、さもありなんという感じで、なかなかマッチしているのかもしれない。
ただそれだけに、これを見て何を感じるか、どう評価するかは、何とも言い難いところ。モナリザとかミロのヴィーナス的な目玉が少ないだけに(あるヒトには目玉な、聖徳太子像とか、王義之の書とか、けっこう出展している機会が多い)、あの老人力の方々は何を見てるのか気になるところ。まあ、そういう人達は、そもそもそういうこと気にしてないのかもしれないが。せめて、日本美術史と、日本史の二つのガイドは持っていくべきでしょう。味わうためには。



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近世公家の生活と伝統文化 「冷泉家」展
小田急美術館 新宿
正月第一弾は、正月らしく和風コースから。京都のタイムカプセル、冷泉家の蔵に伝わる銘品のなかから、ハレの王朝文化というより、京都の朝廷周辺の生活を感じさせる品々を展示した展覧会。なるほど、正月だけあって、来客も「人生のベテランの方々(笑)」が多い。けっこう混んでいる。めでたい限りである。こういうのって、実は経済に貢献してるんだよね。よく見てると、地方から来てるヒトもいるし。日帰りでも、交通費と食費、場合によってはおみやげ代は落ちてゆくわけだし。
さて、王朝文化というと中世のみやびな世界を想像しがちだが、冷泉家が伝えているモノは、そういう時代の栄華ではない。もちろん、定家直筆の銘書などもあるが、貴重なモノは応仁の乱以降の歴史の表舞台から消えてからの貴族の生活をきちんと今に伝えているところだ。これは、歴史の教科書からは、ぽっかりと穴が空き抜け落ちてしまった部分。尊皇攘夷の時代になって、再び記述が現れるまで、京都で何があったのかはほとんどかえりみられずにいた。そこを実際に見ることができるのだ。
そこで気がつくのは、当然といえば当然のことなのだが、予想以上に江戸時代の一般の文化に引っ張られていることだ。何のことはない。たとえば絵師にしても江戸時代である以上、その時代の一流の描き手であればあるほど、その時代のメインクライアントたる町人文化の影響を強く受ける。屏風絵を依頼するにしても、頼む相手は彼らになる。こういう例が典型的だと思うが、基本的には京都の公家さんとて、当時の時代のカゼから超然としていたわけではなく、そのまっただ中にいたということがわかる。その中で、いかに過去から受け継いできた伝統と折り合いを取るかが重要な課題だったことは容易に想像がつく。何のことはない、江戸時代も今も、そんなに変わってはいないのだ。これは発見だし、大いな納得だ。
さて、数ある列品の中で、妙に気に入ってしまったものがある。それはカルタの一種なのだが、偏継カルタというモノ。要は、漢字の部首が書かれているカードなのだが、これは一体どうやって遊ぶのだろうか。偏と旁を組み合わせて、漢字を作って、より難しい漢字だったり、より風流な漢字だったりする方が勝ちとかいうゲームなのだろうか。それでもいいが、「無い字を創って、その読み方や解釈を競って、深い方が勝ち」とかだったらどうしよう。ぼくのいちばんゾクゾクする世界ではないか。想像しただけで、これは興奮する。貴族文化は奥が深い。



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