Gallery of the Week-Jul.00●

(2000/07/28)



7/4w
エドワード・ホッパー展
Bunkamura ザ・ミュージアム 渋谷

エドワード・ホッパー。20世紀アメリカ絵画を代表する、具象作家である。アメリカ絵画。具象作家。はっきりいって、得意でもないし、余り興味もないキーワードが二つも並んでいる。しかし、マイナス×マイナスはプラス。そこまで縁遠くなると、かえって面白いモノである。クールに思い入れなく見られるし、先入観がない分、あらゆる部分に発見がある。そういうワケであえて訪ねてみた。
ホッパーは、19世紀末から20世紀中盤まで活躍した。その中でも、最初の30年ぐらいは、まだ画家としてのアイデンティティーは薄く、イラストレーションが本業。その片手間にヨーロッパ近代のいろいろなスタイルを意識した作品を発表しているという感じだ。このあたりは、同じ時代に活躍した、オーソドックスなスタイルを持つ日本の画家の雰囲気とも共通する。違いがあるのは、40を過ぎて、画家としてのアイデンティティーを持ってからである。良くも悪くも「アメリカン」な具象スタイルを確立してからだ。
ある種、空前の景気に湧くローリング20'sが、アメリカらしさを、それまでの「西欧のフロンティア」から、「世界の中心」としての自信に変えた。それと期を同じくして、というより、その流れに乗ったカタチで、ホッパー自身も自分の「やり方」への確信を持ってゆく。それまでの作品は、常にヨーロッパ画壇を過剰に意識した部分を持っていた。しかし20年代以降のそれは、自分が見たモノ、見えたモノに忠実に、ある種稚拙であってもストレートに描いてゆくスタイルである。それは文字通りアメリカらしさへの誇りだろうし、アメリカの人々がホッパーの作品に抱く共感や憧憬も、それが原点になっているのだろう。
しかし、それにしても版に分解しやすそうな色使いだこと。決して悪い意味ではなく、実にわかりやすい。決してシンプルではないのだが、とても明解だ。何ともアメリカンスピリットではないか。だが、この色調はどこかで見覚えがある。初期のVHSの3倍速モードの色調ではないか。βとは正反対の、色信号中心の絵作り。あれだ。なるほど、VHSは色調がアメリカンだったのだ。先行していたβマチックに対し、VHSがグローバルでデファクト・スタンダードとなったのは、決して録画時間だけではなかった。妙な点まで発見してしまったひとときであった。



7/3w
「写真の世紀」展 写真家が見た20世紀
銀座松屋 銀座

言ってるそばから、またもや20世紀の回顧写真展だ。こうなったら、毒を食らわば皿まで。この手の企画で行けるものは全部制覇しよう、という気になってしまうから不思議だ。今回の展覧会のコンセプトは、今世紀を代表する名だたる写真家の「名作」を集めて20世紀を振り返ろうというもの。芸術から報道まで、有名な写真家の有名な作品が、ズラリと並ぶ。いわば王道コースだ。
基本的には西欧の写真家の作品を、西欧的センスで集めたものとなっている。そこにいくつか日本をテーマにしたものや、日本人の作品も混じっているという感じだ。それだけに、比較的他人事のように、歴史の本でも読んでいるような視点で見ることができる。視点も視線も、その先にある情景も、ある程度距離感がある分、見るほうも距離感をおいてみれるということだろうか。ちょうど年末恒例の「今年の重大ニュース」でも、国内編は自分がその時何をしていたのかというスケールと重ね合わせやすいのに対し、海外編はフィクションとはいわないまでも、自分にとってのリアリティーが薄く感じられるのと似ている。
ということで中身は問題なし。戦後の作品については、オリジナルプリントでの出品もかなりある。百貨店での催事のワリには、そのあたりはきちんとしている。デュープばっかりみたいなのも多いからね。各作品が今生きてるのかどうか。作品としてのパワーはどうか。といった視点も、アート的な展覧会では重要だが、そこはそこ。個々の作品は大きなテーマのための手段なのだから、あまりうるさいことを言うまでもないだろう。そういう面では楽しめるし、20世紀の回顧というまとまりもいいと思う。
つくづく思うけど、この手の企画はキュレーション次第だね。作品はあふれるほどあるんだから、それをどういう視点で集めるかの面白さ。このあたりの良し悪しについては、とにかく一通りこの手の企画を見つくした上で考えてみたい。でも、けっこう考えオチみたいな企画のほうが面白い気がするけど。



7/2w
この国の記憶 長野重一・写真の仕事
東京都写真美術館 恵比寿

20世紀は、映像と画像の世紀だ。写真、ムービー、ヴィデオ等、ヴィジュアルイメージに関する技術がかつてないほど多様化し、大衆化した時代。それゆえ、20世紀についてはあふれるほどのヴィジュアルイメージが残された。当然、世紀末回顧としては、「ヴィジュアルイメージでたどる20世紀」的なモノが多くなる。今年になってからも何度か、その手の展覧会を見ることになった。この展覧会は、長野重一という一人の写真家の半生を振り返る作品展で、必ずしもそういう回顧展ではない。しかし、時代を見つめる目をキーワードに、ほぼ20世紀の後半を通して作品を作ってきた写真家だけに、そういう色彩も強くなってしまう。
彼が活躍したのは、第二次世界大戦後になってからだ。だから、およそ50年に渡った作品が集められている。そしてその多くが日本のスナップ、それも東京を中心としたスナップで固められている。もともと写真雑誌でフォトジャーナリストとして活躍してきたひとだけに、それぞれの作品には、それぞれの時代の空気や人々の気風がきっちりと刻み込まれている。そしてそのテーマ選択には、それぞれの時代の社会的な「流行り」も刻まれている。そういう意味では、これはこれで一つの戦後史だ。
で、それはそれでいいのだが、個人的には何とも悩ましい問題がある。ここに展開する50年の歴史のうち、40年分ぐらいはぼく個人の歴史でもあるのだ。さすがに1歳2歳は記憶にないが、その頃の景色は4つや5つの頃のモノと、基本的には変わらない。それはまた、戦後の焼け跡が建物で埋まった、ぼくの産まれる数年前から変わっていない。つまり、この印画紙に焼きつけられた東京の歴史は、またぼくの記憶の内側にある景色でもあるということだ。これは、あるいみで心穏やかにはみられない。
昭和30年代の景色の中にいる子供には、どうしても自分を重ねてしまわざるをえない。そういう写真には、逆デジャブ感というか、自分を自分が眺めているような不思議な感じがある。でもそれは、そこに見える時間にカスんだ景色と同様、自分の記憶を何か歴史のはるか彼方に追いやってしまうような、不思議な印象がある。まあ、もう40過ぎのオジさんだし、それだけ歳喰ってることも確かなのだろうが、なんかイヤな感じと照れくさい感じが相まみれるような、不思議な心境になった。それはそれで事実なんだとは思うけど。



7/1w
2000 ADC
ギンザ・グラフィック・ギャラリー/クリエイションギャラリーG8
銀座

恒例の東京アートディレクターズクラブの受賞作品の展示である。当然のことながら、仕事柄気にしないワケはないし、当然興味も深いのだが、いざ感想を書くとなるとなかなかヤだね。気楽に書けない。いろいろと読めすぎちゃったり、わかりすぎちゃったりするので、クールに、客観的に見るって感じじゃないモン。でも面白いことは面白い。そういうワケなので、あんまり細かい話はパス。全体の話でお茶を濁す。
個々の作品は、それなりに面白いしがんばってるし、勢いがあるんだけど、並べてみるとあら不思議。なんかガラスの天井というか、閉塞感がスゴくある。それがヴィジュアライズされて見えてくる感じ。相対的には広告はビジネスとしては勢いがあるんだけど、不思議な行き詰まり感が支配していて、「これでいいのか」と自問しながらも、勢いで行けるトコまでは行ってみよう、みたいな気分が充満しているのも確か。
特にグラフィックデザインでいうならば、ディジタル化以降のテクノロジ先行だった部分が完全に消化され、質、コスト、スピード、どの面のメリットでも求められれば明確にカタチにできるようになったのが、逆にジレンマになっているみたい。つまり、せっかくえられたその進歩を、どう使っていいのかが見えてこない、みたいな。オプティマイズはいくらでもできるようになったんだけど、何にオプティマイズしていいのかが見えていないということだろうか。
でもこれは、デザインに限らず、広告界すべてがとらわれているジレンマともいえる。力を持て余してる状態。その理由は多分、いろいろなところでクライアントニーズを先取りしすぎた部分ができてしまっているんだと思う。そういう意味では、そのコンピタンスや付加価値を見えやすくした上で、具体的なソリューションの道具として使ってもらうべく、クライアントの問題意識を高める方向に持っていけば解決はするんだろうけど。言うは易く、行うは難し。というヤツだよね。これは。



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