Gallery of the Week-Feb.01●

(2001/03/30)



3/5w
KAWS TOKYO FIRST
パルコギャラリー 渋谷

ニューヨークのグラフィティー・アーチストとしてストリートから登場し、90年代末に至って独特の世界を構築し、一躍現代アートの寵児となっているKAWSの日本初見参の展覧会。グラフィティー系のアーティストといえばなくてはならない感じさえする、渋谷のパルコギャラリーを舞台に登場だ。
作品は大きくわけて、広告ポスターや写真にウィットの効いた絵柄を付け加える、初期からの作風の作品と、オリジナル・キャラクターを使ったポップアート感覚あふれる作品の二つの流れでまとまっている。前者は、なんとも落書き感覚あふれる、思わずニヤリとしてしまうような、ジョーク感覚にあふれるもの。今年も選挙が近いが、公示前の候補者ポスターへの落書きには、けっこう笑えるモノが多いが、まさにあの感覚である。これは、いかにもストリートという感覚にみちている。
一方、骸骨を思わせるオリジナルキャラクターの作品は、どちらかというと正統派現代アート感覚というか、ポップアートの21世紀的な再構築という感じである。いかにもアメリカンなカルチャーを下敷きにしていた60年代のそれとは違い、どことなく「おたく文化」が入り込んでいるのが、今様である。それだけに、その手の作品を作っている、日本の一部の現代アート作家と、文脈に共通性があるのがおもしろい。
ある意味では、「おたくポップ」は、ポストモダンの時代のジャポニズムといえないこともない。幸か不幸か、昨今の日本は若者の行き詰まり感にあふれている。ストリートカルチャーは、そういうふつふつと湧き出る不満が多いほどエネルギーを持つ。実際最近では、街中でなかなか味のあるグラフィティーアートを見る機会も多くなった。こうなると、かえって落ち着きすぎたアメリカより、東京からストリートアートの新星が出てくる感じがないでもない。期待して見てましょう。



3/4w
Real and Imaginary flowers A TOMATO Project
ラフォーレミュージアム 原宿

ロンドンを中心に活躍し、日本でもおなじみのデザイナー・アーティスト集団である「TOMATO」のメンバー全員が参加し製作したインスタレーション。いわばイベント自体が一つの作品である。最近のアート、特にテクノロジーの関わるアート表現は、どうしてもカタチから入ってしまうものが多い。それはそれで、ある種の創作意欲をくすぐられることも確かだが、出てきた作品が、どうしても小さくなってしまうことも否めない。発表された当時はよくても、時間が経つと陳腐化してしまうもの。作家の「解説」がないと、メッセージが伝わらないもの。そういう作品が妙に多い昨今だ。
しかし、流石にロンドンというか、カタチ以前のアイディアから正面切って入ってくる作品が並んでいるので、それは潔くて気持ちいい。ある種のテクノロジーも、ディジタルも全く無縁かというとそうではないのだが、それ以前の部分で、キチンと作品となっている。日本の人達に、いちばん欠けている発想だと思う。金はなくてもアイディアがあれば名を成せるという、ロンドンのアートの伝統は決して崩れていないのだろう。全く、ロンドンの金のないミュージシャンが、人気がないけど個性的な楽器をみつけて使うと、それをみんなで欲しがり、プレミアムをつけてしまう日本人の甘えぶりには、目を蔽いたくなる。
さて、ぼくなんかからすると、その作品には非常に60年代的なエッセンスを感じる。それは、ルック・アンド・フィールという面ではなく、発想、テイストという面で。極めて自由なアイディアからスタートしているところが、全てがフロンティアだった60年代の発想を感じさせるということ。その分、アイディア倒れというか、思いつきはよかったんだけれど、やってみると「大したことない習作」になってしまったり、なんか、今ひとつ「判じ物」になってしまったりしている作品もないわけではない。
それも含めて、基本的に自由なところがパワーの源泉なのだろう。確かに、一つ一つの作品を単品で見せられる分には、出来、不出来の差は気にならないといえばウソになるが、これだけたばで見せれれれば、それなりのマッスとしてのパワーを共有するようになるのは確かだ。ピカソの展覧会で、けっこう彼としては駄作の習作でも、それが何十もかたまってくると、それなりの魅力が出てくるようなものかもしれない。評論するより、ひとまず見たほうが早いというインスタレーションだ。



3/3w
マリリン・モンロー写真展
伊勢丹美術館 新宿

ぼくとしては、あまりらしくないテーマの展覧会だが、チケットを頂いていた上に、ちょうど新宿へ行く用事があったので、ちょっと覗いてみたという次第。伊勢丹の中西さん、ありがとうございました。というワケで、もらったお礼もあるし、日頃お世話になってる義理もあるので、パブリシティーついでにここにとりあげる。展示自体は、映画のスチル、報道写真、プライベート写真の3つのコレクションと、関連した展示から、マリリン・モンローの人生と、彼女が駆け抜けた戦後アメリカの黄金期を振り返るもの。
まあ、通常のギャラリーだとほとんどヒトの入ってない時間に行ったのだが、まあヒトのいること。未だ衰えないその人気、神話の一端を垣間見た感じがする。それも圧倒的に女性が多いのが圧巻で、マリリン・モンロー同世代の「ベテラン」の女性から、20代前半の学生風の女性まで、幅広い客層を集めているのは特筆すべきだろう。実質的な存在を越えて、日本の女性にとっては、20世紀後半のそのものを象徴する偶像化しているのだろう。
さて、おなじみのカットを中心とする展示された写真は、なによりアメリカのゴールデンエイジそのもの、アメリカンドリームそのものの姿だ。しかし、それが作られた映画のスチルではなく、たとえば朝鮮戦争の前線慰問の報道写真だったりすると、そこにある種の本質が見えてくる。アメリカンドリームとは、何のことはない、結局は階級社会であるアメリカの本質をうまく隠蔽し、大衆をうまく動員するための方便に過ぎなかったと。
門戸こそ開いていても、そこに入っていけるのは結局は限られたエリートだけ。多くの大衆は、その門が開いている事実に夢を託すことで、虚構の平等感を満喫できる。そして、公民権運動以前の時代では、ギリシャ時代の奴隷よろしく、本当に階級分化し、差別されている人達がいたからこそ、その虚構の帳尻を実際に合わすことができただけのことだった。結局アメリカというシステムは、この差別の構造から抜け出すことはできず、新たな区分けのラインを引き続けることでしか、活力を維持できないのだろうか。



3/2w
ポスター芸術の革命 ロシアアバンギャルド展 ステンベルグ兄弟を中心に
東京都庭園美術館 目黒

1920年代を中心にこだわりの企画を見せる庭園美術館が、初期ソ連のコミュニケーションアートの流れを、映画ポスターを中心に見せる展覧会。ロシア革命とともに沸き起こったアバンギャルドアートが、いろいろな曲折を経ながらも、手法としては社会主義リアリズムに収斂してゆくまでの20年あまりの歴史を、ポスター、パッケージ、エディトリアル等、西側で言う商業美術作品により展示する。
基本的に、イタリアの未来派もそうだし、ソ連の構造主義もそうだし、ある意味では近親憎悪のナチスとバウハウスもそうだし、この時代のセンセーショナルなプロパガンダを、力強くストレートに語ってしまう作風は好きなのだ。まだプリミティブなレベルにあった大衆社会だからこそ、そこに対するアジテーションも極めて素朴で本質的。その後のようなテクニカルな虚飾を駆使する必要もない。やはり、大衆に対するコミュニケーションに関わるものとしては、このストレートさは憧れでもある。
それは多分、当時リアルタイムで表現技法に携わっていた人間にとって、今以上の憧れとインパクトを与えたことは想像に難くない。多分、その時代でも、ドイツで、イタリアで、アメリカで、日本で、それらの技法と表現が相互に刺激を与え、それが20世紀の「商業美術」の隆盛を築いたのだろう。
やっぱり、この種の「マス・ヒステリー」を直接的に煽るモノをみると、血湧き肉踊る。現代表現の原点である。しかし、このような表現も、それが強いインパクトを持つものだけに、どういう人間が、どういう戦略からこれを利用するかにより、ポジティブにも、ネガティブにもなる。そういう意味では、こと日本においては、これもまた「密教徒」がキチンと戦略的にイニシアチブを取り、「顕教徒」を煽り、宥め、導くためのものでなければいけないということだろうか。いろいろ考えさせられるものである。



3/1w
シュルレアリズムから幾何学的抽象へ 阿部展也展
東京ステーションギャラリー 丸の内

戦前から前衛作家として知られる一方、写真家としても活躍し、戦後になってから、さらに精力的に新たな作品を発表しつづけたのち、活躍の半ばにしてローマに客死した阿部展也。ぼくにとっては阿部展也は、名前といくつかの作品こそ知っていたものの、余り詳しいことを知っているアーティストではなかった。どちらかというと、戦前の作品の多くが失われていたり、活躍の最中に他界したりと、どちらかというと不遇なイメージが強いが、その生涯にわたっての多彩な作品を集めた展覧会。
前衛系のアーティストというと、どうしても手法やカタチから入る人が多い。海外でもそうなのだが、特に日本の現代アート界では、そういうタイプの人が多い。しかし、阿部展也の作品は、あくまでもイメージが先にたち、それをどう表現するかというトライアンドエラーが、多様な作風への挑戦として現れている様子が見て取れる。基本的にアカデミックな美術教育を受けた人ではないので、それが功を奏したのかもしれない。また、基本的にオーソドックスな絵画も含めて、テクニック的に器用な人なので、それだけに自分のイメージを表現できるプロセスを求めたのかもしれない。
表現よりイメージが勝ち、その限界を打ち破ることが作家のライフワークとなるという構図は、ぼくにとっては極めて共感を呼べるものだ。今回展示された作品も、なかなか感じるものが多かった。よく考えて見ると、1960年代のローマ画壇の活躍ということは、ぼくの敬愛する作家、フォンタナとクロスする部分もあるワケだし、実際その表現も通じるものがある。なにより、50近くなってから一躍奮起し、ローマに移住するあたりは、大いに意気を感じるものも多かった。なかなかよし。



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