Gallery of the Week-Sep.01●

(2001/09/28)



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夢見る影 ファブリツィオ・コルネリ展
東京都写真美術館 恵比寿

何か今月は東京写真美術館の大特集となってしまったが、半期末で時間がないこともありお許し願いたい。ファブリツィオ・コルネリは、照明によるライトアップや、照射したライティングにより創り出した「影」の作品を得意とする、光と影のアーティストとして知られている。この展覧会は、その中でも「影」による作品を中心として展示している。というと大それた感じもするが、基本的にはいわゆるトリックアート系の作品である。その中でも、直接目に見える物体や画像と、光を通した影像との違いを見せる「だまし絵」タイプということができる。
それはそれでけっこう見ていて楽しいし、一般の表現作品とはちょっと違うのだが、けっしてキライではない。しかし、この手の「トリック」が「アート」になるためには、条件があるように思われる。それはあくまでも作家が作品に込めたメッセージの質にかかっている。もちろん、変換されて現れた影像自体が、作者のメッセージを込めている作品(文明批判や平和の主張など)でもいい。しかし、トリックアートならではと思わせるのは、そういうストレートな主張より、パロディーやウィットといった、斜に構えた視点を備えた作品である。
その手の世界で名の知れた、エッシャーや福田繁雄氏などのアーティストは、その部分でのメッセージ性がキワだったいるし、面白いし、評価されているということではないだろうか。ちょうど、筒井康隆氏の小編の面白さのような感じである。さて、ファブリツィオ・コルネリの作品は、どうもそこのところが足りない。マジメ過ぎるのである。これでは壁に映る電燈の傘の模様と変わらなくなってしまう。シカケが大がかりなだけに、ちょっとものたりなさが目立った。



9/3w
手探りのキッス 日本の現代写真
東京都写真美術館 恵比寿

現代日本で活躍する気鋭の写真家8人、市川美幸、米田知子、高野隆大、鯉江真紀子、小林伸一郎、渡辺剛、鈴木涼子、楢橋朝子による組写真の競作展。それぞれのアーティストが得意とする手法を駆使し、各人の世界を繰り広げている。ここに作品を出しているアーティストたちは、若手とはいうものの、その年齢は決して若いワケではない。団塊ジュニアよりはずっと上の世代が中心となっている。しかし、創作プロセスの裏に感じられる閉塞感には、強烈なモノがある。
それが何かを感じさせるという見方もあるが、どちらかというと見るものを重い気持ちにさせてしまう感が強い。それは何か表現としての写真から「逃げて」いる姿勢が感じられる作品が多いからだろう。具体的には、写真の原点ともいえる方法論を踏襲しつつ、「テーマ」においてのみ独自性を主張しようという、どちらかというと古典的な手法か、表現としての写真そのものであることを否定することで、自分のアイデンティティーを主張しようという手法か、どちらかを感じてしまうということだ。
本来ならば、写真という枠の中で新しい表現法を模索し、写真という概念自体を「深く」してゆくことが表現の王道だろうし、脂の乗り切ったベテランがやっているように、まだまだその余地は大きいはずだ。あえてそこに飛び込んで競うことなく、最初からからめ手のほうに行ってしまう。ちょうど若い連中が「音楽」に取り組む際に、極めて手法が確立した古典的な音楽形式(それはクラシックでもロックでも)をなぞるか、音楽の枠組みの外側で自分の世界を組み立てるか、どちらかに行ってしまい、「新しい音楽表現」に到達しているアーティストが少ないのとなぜか似ている。
実は、こういう状況はアートとしては相当にヤバいのではないかと思うが、それも時代というならば仕方がないかもしれない。作品はアーティストだけが作るものではなく、時代や作品を支える人達も含めて作られるものだからだ。そのような中では鈴木涼子氏の作品が、ある種の普遍性を持ちうる新しい軸を提示しているように感じられた。



9/2w
亜細亜散歩 AFTER KITSCH
資生堂ギャラリー 銀座

東アジアを代表する大都市、東京、北京、ソウル、台北でそれぞれ活躍する現代アーティスト、細井篤、朱嘉樺、鄭栖英、栄栄、黄鋭の5人による共作展。過去2回行われた同名の企画展の三度目に当たるとともに、水戸芸術館においても同名の企画が並行して行われている。もちろん見たのは資生堂ギャラリーのほうだけだが。企画のポイントは、東アジア特有の「なんでもありな日常性」をキッチュとしてとらえ、その日常のなかにキッチュを越えたオリジナリティーをとらえようというもの。
そのコンセプトが具現されている展覧会かはさておき、資生堂ギャラリーという場を生かした展覧会という意味では相当なモノだと思う。各アーティストの個々の作品が、相互にシナジーを持ち、あたかも全体が一つの作品のような空間を作り出しているのみならず、ギャラリーの調度や備品、内装にいたるまでが、作品群と渾然一体と混ざり合い、全体として一つの作品をなしているかのような感じなのだ。
こういうことができるのは、このギャラリーならではの企画だと思う。このビルのエレベーターの扉、資生堂ギャラリーではおなじみの、壁に直接プリントした解説。こういったものも、妙にフィットしている。それらは確かにキッチュといえばキッチュな意匠を持ったアイテムだ。銀座の街における、資生堂ギャラリーのビル自体奏ともいえる。それをくるみこんで違和感なく見せる空間を創出したといういみでは、間違いなくAFTER KITSCHなのかもしれない。



9/1w
鑑真和上と世界の写真家展
東京都写真美術館 恵比寿

唐招提寺の金堂の平成大修理と開基1250周年を記念した、「唐招提寺2010プロジェクト」の一貫として開催された写真展。昨年の夏から秋にかけて、シーラ・メッツナー、具本昌、大西成昭、汪蕪生、荒木経惟、ベルナール・フォスコン、ジョアン・フォンクベルタ、マイク&ダグ・スターン、ヴィム・ヴェンダース、植田正治(本人死亡につき作品は不参加)という、世界の写真家10人が、鑑真和上、ならびに唐招提寺を題材に、オリジナルで撮りおろした作品を競う。
作品のスタイルやテーマは、それぞれの写真家のスタイルを生かしたもので、鑑真像や仏像、堂宇など、もともと題材が限られている中では、バリエーションとなっている。しかしそれだけに、日本文化や、日本における仏教のあり方に関する造詣の違いが、如実に作品に反映されてしまっている。カタチから入って表層的なものに流れてしまうか、何がしかの精神世界を反映した作品になっているか、その偏差は大きい。
鑑真像の展示のときにも感じたのだが、そもそも唐招提寺というのは、それほどハデな存在感を持ったお寺ではなく、どちらかというと、伝統ある落ち着きが魅力である。それを、必要以上にこれでもか、これでもか、と見せようという努力が、なにか空回りしているような印象を受けてしまう。根っから生真面目な人間が、そのマジメさで必死にジョークやコミカルな演技をしている様な感じさえする。そこまでやらなくても、本来の姿をみせてくれればそれでいいのにと思うのは、ぼくだけではないと思うのだが。



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