Gallery of the Week-Sep.01●

(2001/10/26)



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聖徳太子展
東京都美術館 上野

その名も堂々「聖徳太子展」である。これはもう、聖徳太子マニアとしては行かざるを得ないような、正面切ったネーミング。しかし、「聖徳太子の世界」といえば、簡単にはその全貌を見ることができないほど拡がっていること自体もまた魅力の一つ。それだけに、中途半端では名前倒れに終わってしまう可能性もある。もっとも今回の主催はNHKグループでTBSの事業ではないので、そこまでのことはないだろうと思ったが、多少の不安をもって上野へ向かう。
展覧会自体は、大きく二部構成になっている。第一部は太子の時代の仏教、第二部は太子信仰の拡がりである。第一部では法隆寺をはじめ太子に縁の深い寺々から、国宝、重文をはじめとする寺宝の数々が出品されている。法隆寺だけとっても汲めど尽きない秘宝の宝庫であり、中途半端な出展ではかえってものたりなくなってしまう危険もあるが、なかなかのものである。中宮寺の伝如意輪観音をはじめ、この部分だけでも十分に見ごたえがある。
さて今回一番の出し物は、第二部のアタマにある。ずらりと並ぶ「南無太子像」である。これはいい。何とも愛らしい。思わずうれしくなってしまう。ご利益満点である。本来の趣旨とは違うとは思うが、これだけの南無太子像が並ぶというのはスゴい世界を現出させる。太子信仰1300年の中でも、こんな企画は空前絶後だったと思うが、明らかに新しい境地である。
とにかく、質・量共に半端じゃない。これで入場料はよくある企画展と変わらないというのだから、これはお勧めである。多分、混み方も半端ではなくなるとは思うが、ずらりと並んだ「南無太子像」のお姿には、そんな苦労も消し飛んでしまうだろう。いとをかし。ぜひ見るべし。



10/3w
日本人はるかな旅展
国立科学博物館 上野

科学博物館は、厳密に言えばギャラリーではないし、この展覧会も考古学の展覧会ではあるが、出土した考古美術の展覧会ではない(一部、土器や土偶等の古代美術品はあるが)。そういう意味では、ちょっと視点が違うことは否定できないが、まあお許し願いたい。この手のテーマは好きなのだ。特に、日本人の多様性、多民族性、多文化性を担保するような考古学的視座には、大いに興味をひかれるところがある。
さてこの展覧会は、同名のNHKのスペシャル番組にあわせて、日本人のルーツを訪ねる考古資料を体系的に展示したものである。しかしサブタイトルに曰く、「今話題のねつ造旧石器資料と疑問の化石人骨を検証する」である。開き直りといえば開き直りだが、モノは言いようだ。企画途中でいろいろ問題が出てきたものと思うが、この切り返しはいい。かえってなんとも興味を引かれてしまうではないか。
展覧会自体は、新しい情報というよりは、いままでに研究され分析された結果コンセンサスをなっている学説を、実物資料を中心にわかりやすく展示するというスタンスで構成されている。そういう意味ではなかなかわかりやすいし、写真では見たことがあっても実際に見る機会のない化石人骨の実物など、知っている人ほど興味がわく。
特に、縄文人と弥生人の骨相の違いなど、理屈としては知っていても、実物で見たことはなかったし、写真では平面なので今ひとつわかりにくいものが、3Dで現物を見られることで実によくわかる。また、目玉(笑)のねつ造石器の展示や、化石人骨と言われていたものが、実は獣骨であったという展示なども、現物を見るとなるほどよく違いがわかる。考古学好きな人なら、行って損はない。しかし、通常は子供が多い科学博物館に、恐竜の化石もかくやという「現生古代人(老人力人)」があふれている図というのは、それ自体日本人の歴史を感じさせて実に興味深かった。



10/2w
ハングルポスター展 韓国のグラフィックデザイナー17人
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

韓国の有力なグラフィックデザイナー17人が、「ハングル」をテーマにしたポスターで、カラーを出し合い競い合う企画展。「ハングル」がテーマといっても、あくまでも共通のくくり、課題としてのテーマであって、どちらかというと17人のデザイナーがそのスタイルを出し合う展覧会といったほうがいいだろう。もともと韓国のデザインシーンに、大いに興味があったし、もちろん、韓国そのものもけっこうマニアな方なので、足を運びたくなるテーマである。
まず感じることは、当たり前だが、グローバルな同時代性である。日本自体の文化的なテーマは、かなりグローバルなものになっているせいもあるが、共通の語り口がやはり目立ってしまう。しかし、その一方で17人を通してみると、韓国のデザインということでは、90年代の前半に比べても、ある種の混迷の幅や深さが一層深まったように感じられる。
日本とは違い、半島とはいえ大陸と地続きの国ゆえ、アイデンティティーというものに対するこだわりは一段と強い。それゆえ、韓国らしいデザインとはなにかというこだわりと、アメリカ流、日本流といったデザインの方法論とが常にせめぎあっているのが、韓国のデザイン(ある種アートも)の特徴であった。そういう意味では、方法論を消化し切って、その上でアイデンティティーを表現する、というのが基本的なマナーになっていた感じがする。
しかしディジタル化以降、新しい手法や動きがネットワーク経由で流入し、ドッグイヤーで変化するせいか、以前より消化が悪くなったような感じがしてならない。その分、アイデンティティーもむき出しのアイデンティティーをのっけなくてはならないせいか、どことなく座りの悪い作品も散見された。もしかするとそれが、中国が取って代わろうとしている世界の工場的な面と、日本が目指さなくてはならない文化の発信者的な面との間で居場所をみつけなくてはならないという、今の韓国の置かれているグローバルなポジションそのものを象徴しているのかもしれない。



10/1w
私の中のフリーダ 森村泰昌のセルフポートレート
原美術館 品川

10月に入って、2001年度も下期。天気も秋らしくなってきた。そんな中で、ちょっと余裕が出来たので、久々にアクセスの悪いところに散歩がてら行ってみようと思った。ちょうど原美術館で開催中の森村泰昌のエキジビションが、会期が一週間延長になっていたので行ってみる。本来ならスケジュール的に見れなかったものでもあり、ちょっと得した気分でもある。今回も、定番となった感のある、テーマを仮託したセルフポートレートであるが、なんとテーマはフリーダ・カーロである。
これまた、スゴい取り合わせである。フリーダ・カーロというのは、その存在感が強烈であるがあまり、ある種の神聖化、聖域化が進んでいる。ある意味で、正当な評価さえ許されない雰囲気のあるアーティストである。見ているものを黙らせてしまい、反論・批評を許さないところがある。その一方で、ものスゴく饒舌な作品を作っておきながら、なおその本当のメッセージは決して表に出さないようなところもある。其れがまた、聖なるイメージにもつながっているとは思うが。
そこに切り込むのである。これは実に興味をひかれる。で、結果だが、スゴく真っ当な意味で正解、森村泰昌氏にとっても、フリーダ・カーロにとっても正解ではなかったかという感じだ。氏にとって、手法こそ今までの延長上にあっても、表現としては、今までの作品になり切るパターン、人になり切るパターン、その両者を昇華した「作品の中のその人」に成り切るという、新たな次元に達している。そして、それは今まで以上に「やりたかったこと」に近づいている。
それだけではなく、なんだかうまく言えないが、彼の表現自体がフリーダ・カーロの傷や痛みをやわらげる「答え」にさえ見える。表現の表側にある、苦しみのメッセージをふき取った向こう側には、もっと明るいスケールの大きいメッセージが隠されていた。それをはじめて直視し、掘り起こした感じさえする。これでフリーダも成仏(メキシコ人だからカトリックか?)できるというものだろう。



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