Gallery of the Week-Jan.02●

(2002/03/29)



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映像体験ミュージアム イマジネーションの未来へ
東京都写真美術館 恵比寿

3月2週の回にレポートした、第5回 文化庁メディア芸術祭と連動するカタチで、開かれた映像表現技術の歴史をテーマにした展覧会。東京都写真美術館がコレクションする、数々の歴史的な映像装置とその「コンテンツ」、また映像技術に関する資料やそれを活用した映像表現作品を体系的に展示する。展示物は、映像というテーマだけに、実際にヴィジュアルとして見て体験できるものが多く、実物のコレクションならではという楽しみ方ができる。同時に、現代の作家による、映像作品の展示も織り込まれている。
個々の展示物は、どこかで実際に見たことがあったり、本とかヴィデオとかで知っていたリするものが多いが、実際に目で見られるというのは納得性が高い。基本的には「6年の科学」とか、その手の学習雑誌の付録の実験としておなじみの仕組みであり、子供でも面白く楽しめるものが多く、実際にも春休みということもあってか、場所のワリには年少な観客も多く見られた。
そういう意味では、その素性は「見世物」であることは疑いえない。映像とはその出自からして、いい意味で「偉大なるB級」作品なのである。長門大幸氏の「オロナミン理論」ではないが、より下衆なレベルからスタートしたものは、ハイブロウにはなりえない。そういう意味では、この手の映像表現というか、ハイテクアートが、どうやってもウサンくさいものを背負ってしまう理由もこれでよくわかる。そしてまた、テレビや映画がどうやってもマス向けのものにならざるをえない理由もここにある。これをしっかり確認できただけでも、大きな収穫だ。



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デザイン教育の現場から セント・ジュースト大学院の新手法
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

オランダ・プレダにあるセント・ジュースト大学院のグラフィックデザイン専攻過程で試みられている、新しいデザイン教育の試みを事例をもとに紹介する展示。基本的には説明パネルと作例によるプレゼンテーションなので、厳密には展覧会的なものとはちょっと違うが、テーマがテーマなので、ある種のヴィジュアル的な見世物にもなっている。とはいうものの、その大学院でのデザイン教育のトライアルの全貌を見せるものではなく、ある種のトンがった成果についての説明なので、これだけではちょっと語彙不足という感じも否めない。
とにかく、職業的なデザインテクニックではなく、表現力、表現意欲をかきたてるための教育ということはわかるのだが、そもそもそれ以前のヨーロッパでの平均的なグラフィックデザイン教育のカリキュラムがどういうもので、日本のそれとどう違うのかに関してあまり知識がないだけに、そこでつまづいてしまう。さらにいうと、デザインの中に照射されたメッセージを読み解くには、文化的な共通基盤が不可欠なワケだが、現代オランダ社会が持っている、そういう記号性に対するコンセンサスにもあまりに無知である。
とはいうものの、デザイン教育がテクノロジーとしての職業教育ではなく、表現者、コンセプト創造者をどう育てるかという視点で語らなくてはいけないというのは万国共通であるし、そのための方法論をみんな模索しているということはよく理解できた。ここで提示されている方法論が、日本でも有効かどうかは難しいところだが、もっと日本でもそういう視点からの教育改革が必要ということについては論を待たないだろう。そういう意味では、何とも日本はお寒い限りである。



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奔放な人生 版画家池田満寿夫の世界展 黒田コレクションから
東京都美術館 上野

20世紀後半の日本を代表する版画家、池田満寿夫の生涯を振り返る回顧展。池田作品の全版画作品を収集した個人コレクターとして知られる、黒田惣一郎医師のコレクションからの展示である。池田満寿夫といえば、個人的にはその活躍の後半はリアルタイムで見ている。一部分がリアルタイムという作家は、実は一番全体像がつかみにくいものである。ましてやぼくが見ているのは、ビッグネームとしてエスタブリッシュされてからである。そういう意味では、時間軸にそって全体像を見せてくれる展示は興味を引く。
もっというと彼の活躍した時代は、近代美術から現代美術に変わりつつあった、アートにとっても微妙な時代である。それまであった、「スノッブな表現と大衆的表現」「純粋芸術と商業芸術」という二項対立がなくなり、一人のアーティストが、時と場合により縦横無尽に手法と活躍の場を選べるようになった、60年代末という変曲点を含んでいるからだ。この時代における彼の立場は、ちょうど同時代のビートルズのそれと正反対の位置付けと考えられる。ビートルズが、大衆芸能からアートへの道をたどったのに対し、もともと大衆性が念頭にあった彼は、芸術から大衆への道をたどっていったといえるだろう。
そう思って見てみると、彼の作品はあまりに時代の瞬間瞬間に忠実だ。数年おきに作風が変わるが、それはまさに時代の風の変化を忠実になぞっている。だからこそ、リアルタイムではとらえどころがなかったことに気づいた。当時ぼくらは、ぼくらと同じ位相の表現を求めていたのではなく、次にぼくらが向かうべきものを示してくれる表現を求めていたからだ。そういう意味では、彼は決して現代的なアーティストではなく、とてつもなく多い引き出しを持った中から、時代にあった表現を引っ張り出してくるタイプの芸術家であることがよくわかった。多分、最後の古典的な芸術家立ったんだと思う。人々が理解しやすく支持される理由も、そこに求められるのだろう。



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第5回 文化庁メディア芸術祭
東京都写真美術館 恵比寿

何、まだやってたの?という感じの「メディア芸術祭」である。流石、官庁のやることは違う。二回やったら恒例、いわゆる既得権化である。こうなるとニーズとは関係なく、ヤメようにもヤメられなくなる。しかし、これだけ「イマさら感」があると、これはこれで、いったい何をやっているのか興味も湧いてくる。そういうことで、さして期待もなく、足を運んでみた。
結果からいえば、内容はさておき、それなりに興味深い傾向を見て取れた。それは、インタラクティブ部門の超不作に対して、ノン・インタラクティブ部門の活性化である。それも、いわゆるディジタルっぽい表現ではなく、オーソドックスで伝統的な絵画などの平面表現を、ディジタルというキャンバスと絵の具を使うことで活性化サセた作品群である。
これは、なかなかめっけものである。時代はここまできたか、という感じでもある。「ディジタルだから」という気負いは微塵もなく、アナログの絵の具よりもイメージにあった色調を出しやすいツール、ぐらいの感じで使いこなす。ここまできてはじめてアートといえるだろう。ある意味で、旧来のアナログ的手段を使った「絵画」が行き詰まってしまったのと好対照といえる。
基本的に人間の能力というのはスゴい。サンプリング・キーボードが出てきたときには、これは果して生をプレイして録音したものと、サンプリング・キーボードをプレイして録音したものと区別できるのだろうか、とびっくりしたものである。しかし、ほどなく、生かサンプラーかだけでなく、どのメーカーのどのサンプラーかまで聞き分けられるようになった。これが人間である。
人間の感性は、必ず技術に勝つ。感性が技術の奴隷になることはありえないのだ。写真の登場が、印象派の壮大な実験を経て、20世紀の抽象画の時代を生み出し、その一方で20世紀末には写真そのものを主要なアートの作画ツールにまでしてしまった。それと同じだ。新技術の登場時には、技術によって化けの皮が剥がされる人、技術にのっかって偉そうなことを言う人、必ず出てくるが、時間がたてば最後は王道に戻る。その点が実感されたことは、なにより収穫だった。



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敦煌美術展
そごう美術館 横浜

久々のそごう美術館である。実は、そごうが経営破綻してからはじめてそごう美術館に足を踏み入れたのであった。そう思ってみると、百貨店系の美術館というのも、ほとんどリストラされて姿を消したか、風前の灯となっている。そんな中で、破綻したそごうの美術館だけが今も残っているというのは何とも皮肉だ。いや、そういうリストラをしなかったからこそ破綻したともいえるのだが。
この企画は、敦煌の壁画や仏像の模写・複製を中心とした展覧会である。莫高窟蔵経洞発見百年を記念して、中国国内で行われた記念展示会をベースに巡回してきたものである。基本的に壁画や仏像は洞窟にくっついているワケなので、パリの美術館にあるヤツみたいに暴力的にぶち壊して引っ剥がしたもの以外は、持ってきて展示するワケにはいかない。そういう意味では模写・複製でも、それなりに納得できる。
もちろん、実物の経巻や仏像も出展されている。けど、再現された石窟の涅槃像は、それなりにインパクトがある。やっぱりデカい仏像というのは、見ていてうれしくなってしまう。そういえば最近、あまり仏像、仏画を見ていなかったことに気付いた。仏様には、なるほどご利益があるものだ。



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