Gallery of the Week-Jan.01●

(2003/01/31)



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再生する伝統 インド・民族アートの新たな挑戦
たばこと塩の博物館 渋谷

世界の各民族に伝わる「伝統芸術」の中には、時として文明の進歩とともに忘れてしまった、おどろおどろしいほどのエネルギーが残っているモノも多い。特に、それが伝わる地が、近代から遠い伝統を持てば持つほど、そのパワーははかり知れない。なんといってもインドである。0を発見したのもインドなら、あらゆる宗教や哲学を呑み込んでしまう「思想のブラックホール」ヒンドゥー教を、今もうけついでいるのもインドである。そんなインドの伝統民族アートといわれたのでは、興味を持たないワケがない。さっそく、インド料理を食べて、気合いをもりあげてから行って見た。
インドといってもあまりに広い。まさにインド亜大陸には、八百万の民族がある分、それだけ伝統文化もある。だからこそ、ヒンドゥーとか「何でもあり」にならざるを得ないワケでもある。その反面、たばこと塩の博物館の企画コーナーは狭い。というわけで、インドの中でも特定の伝統芸術にスポットライトを当てて紹介することとなる。ここでは、海外でも比較的紹介されることの多い、4つの伝統芸術を取り上げて紹介している。
ネパールに近いミティラー地方の壁画が元になったミティラー画。ムンバイに近いターネー県に伝わる細密画のワルリー画。ビハールの素焼きの塑像。そしてゴンド族出身のアーティスト、ジャンガル・シンの作品、である。といわれても、ふつうはピンとこない。ぼくもそうである。見ても「理解」の外側にある部分は多々ある。だが、わからなくてもスゴいものはスゴい。それは、まさにたとえば新石器時代の焼き物や壁画に残されたイメージに共通する。
多分、数千年前の人達が、タイムマシンで現代につれてこられ、そこで作品を残したら、ほぼこれと同じような感じになるのではないか。文明の生きた化石とでもいおうか。私たちが忘れてきてしまった、神秘の野生の力である。ところで、会場で黙々と作品を作っている、現地のアーティストがいるのだが、彼らは一体何を考えながら作っているのだろうか。そう考えると、ここが渋谷であることも忘れ、何とも無気味な気持ちにさいなまれた。



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「クッションから都市計画まで」
ヘルマン・ムテジウスとドイツ工作連盟:ドイツ近代デザインの諸相
東京国立近代美術館 竹橋

先週の出張で、年末年始モードは一山越したので、今週は、久々の本格的展覧会である。新春企画については、ぜひみたいと思っていたモノがいくつかあるのだが、これもそのひとつ。「世紀末」のアールデコ以降、「バウハウス」が登場するまでの、モダニズムの懐妊期とも言える、20世紀初頭のドイツのデザインを回顧する展覧会である。極めて重要な時代なのだが、なぜか多く語られることはなく、常にミッシングリンクのようになっている。
具体的には、統一された帝国の成立から、第一次大戦を経て、ワイマール期まで。この時期のドイツは、まさに近代ドイツの基本的フレームやインフラが成立した時期である。ヨーロッパの鉄道に詳しいヒトならすぐわかるが、この時期は、ドイツの鉄道網の基本ができただけではなく、01型に代表されるような、近代ドイツ制式機の基本規格が固められた時代である。それは、戦中のナチス期、戦後の冷戦期を貫いて、今に至るまでドイツの鉄道を規定している。
それほどの「動き」があった時期であるにもかかわらず、第一次大戦の敗戦と、それに基づく超インフレで、何もなかった時期のように語られることが多い。それは、ナチス期を否定するには、実はそれ以前のワイマール期、さらにそれ以前の帝制期との連続性のほうが強いがゆえに、そこをミッシングリンクにしておかなくてはいけないというベクトルが働いているのだろう。いつもいっているように、フォルムやコンテクストにおいては、ナチスとバウハウスというのは同床異夢である。その理由は、この失われた時代をきっちりとみつめてはじめて理解できる。
この展覧会は、この時代の流れを、まさに「ドイツ工作連盟」の中心として活躍したムテジウスの目かを通して再現している。まさにドイツのデザイン史上の「謎」を、明解に解き明かす。何がどこから生まれ、何が変わって、何が変わらなかったのか、一目で理解できる。それだけではなく。いわゆる「モダニズム」として、突然変異的に思われがちなモノが、実は1900年代からテイストとして現れていることには、驚かされると同時に、納得させられるモノも多い。
さて、個人的に快哉の叫びを上げざるを得なかったのは、若き日に、日本で建築家として活躍し、今も残る旧法務省ビル等を建築したムテジウスの遺品の中に、日本の障子のデザインを集めた書物があった点である。かねがね、エキゾチズムとは違うもう一つの「合理志向」のジャポニズムがあり、それがバウハウス以降のモダニズムに多大名影響を与えたのではないか、と思っていたのだが、図らずもその一端を目撃してしまった感がある。まさに、「住居」展で示したモダニズム住宅のあり方が、きわまて日本の住宅の規格化を思わせるとともに、その子孫たる公団住宅やマンションが爆発的に日本で増殖したのも、まさにこのDNAのなせるワザだったと確信した。



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「Area-"Conscious"」 白石里美写真展
ガーディアン・ガーデン 銀座

今週は、連休で一日少ない。おまけに個人的には出張がある。それも日帰りなので、出張先での余裕はない。それだけでなく、今週は展覧会の端境期なのである。ということで近場だが、これは思わぬ大発見だ。今回のアーティスト白石里美は、ガーディアン・ガーデンおなじみの「ひとつぼ展」から登場した、若手女性写真アーティスト。同世代の女性の等身大の姿を被写体とし、独自のメッセージを送っている。
女性が女性を写すというと、宮下マキが強く記憶に残っている。男性ではイメージこそできても、シュレディンガーの猫のごとくその状態を見ることができない、心をハダカにしてしまった女性の姿。それは、単なるポートレートであっても、あまりに生々しく、あまりに直情的なインパクトを与える。白石里美の作品もそういう意味では共通している。たとえば、ヌード以上に欲情する視線のアップ。これは女性でなくては撮れない。ホクロも、開いた毛穴も、伸びた鼻毛も、その無防備さが、あまりに刺激的だ。
男性的価値観においては、タトゥーを入れたり、記号性のある衣装でドレスアップしたりというのは、日常から離れて、ある種の虚構の自分を演出することである。成りたくても成れないヴァーチャルな自分の理想像を、チラリと現実の中に垣間見せることで、気分の上では成り切ってしまおうという世界である。しかし、ここに被写体として登場している女性たちは、シチュエイションこそ、タトゥーだったりコスプレだったりと、古い価値観では日常を見て見ない方向の視線を感じさせるものであるにもかかわらず、日常以上に日常をさらけ出している。
そう、これらの作品においては、被写体が完全に主役である。写真家はかなり透明化し、ほとんどプリクラに近い。アーティストが、ハダカの心を引き出すのではなく、被写体の彼女たちが、ハダカの心を見せたくて見せたくて仕方ない様が、画面からあふれてくる。このエネルギーはスゴい。そして、こういうエネルギーを、その背中のタトゥーの如く、服と化粧の秘めている若い女性がこれだけいるということに、あらためて驚きと喜びを感じる。こういうエネルギーがあるなら、日本は大丈夫だ。



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田中一光 ポスターとグラフィックアート展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

ちょうど一年前に亡くなった、グラフィックデザイン界の重鎮、田中一光氏の一周忌ともいえる回顧展。その活躍は、とてもギンザ・グラフィック・ギャラリーの空間に入り切るものではない。しかし、氏に縁の深かったgggだけに、限られた空間をフルに使い、代表的なポスター作品と、自らの作品として手がけたグラフィック・アートに絞ることで、その業績のスゴさを垣間見れる構成となっている。
しかし、当たり前といえば当たり前なのだが、時代を創る人は時代を越えている、ということを改めて感じさせられた。その時代のトーンを自ら作っていった人には、50年代も、60年代もない。たとえば時代ごとの印刷技術といったように、もちろんどんな超人でも越えられない時代性はある。しかし時代に引きずられるのではなく、その限界を越えた発想をカタチにしているからこそ、時代が動き、フォロワーが寄ってくるのだ。
だから氏の活躍は、決して過去のものではない。それ以上に、ベテランとして油が乗りきってきたあたりから、ぼく自身がこの業界にいて、かぶっているということの重みを改めて感じさせられた。世界観自体を作った人達が、まだ第一線で活躍している時代を共有していた。それを思うとき、われわれの役割として、ある種、文化を伝えなくてはいけないんだ、という気さえしてきた。広告界がもっと元気にならないと。



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