Gallery of the Week-May.03●

(2003/05/30)



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ファブリカ展 94/03混沌から秩序へ
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座<

世界の若いアーティストたちに場とチャンスを与えようと、ベネトンがサポートして開設された、コミュニケーション・リサーチ・センターである「ファブリカ」。1993年の開設以来、選ばれた25才以下のアーティストが、映像から画像、デザインなど、あらゆる表現プロジェクトに取り組んでいる。この展覧会は、「ファブリカ」10年のあゆみを振り返り、その切り開いた世界を網羅的に見せてくれる。
ご存じのように、ぼくはメッセージ性を全面に出したアートは嫌いである。コトバで議論したほうが早いメッセージを、わざわざ寓意を用いてアート作品の中で語るというのは、メッセージの主張としても反則だし、アートとしてもその作品の表現の純粋性を傷つけると思うからだ。これらの作品の中にも、ある種のメッセージ性を感じさせるモチーフがないわけではない。しかしメッセージ以上に、コミックスのようなギャグや、トリックアートのような引っかけが先に立つ作品になっている。ここが実に重要なのだ。
反核劇画は願い下げだが、バカボンのパパが「反核なのだ」という分には、自分の主張がどうあろうとも、そんなに気にならないものである。ちょうど、二枚目スターにとっては、不倫スキャンダルはマイナスでも、お笑い芸人にとっては、芸のこやし。逆手に取って、芸のネタにして笑いを取れる。新しい表現やコミュニケーションのカタチに挑むのが、この「ファブリカ」の目的というところだが、シリアスなメッセージが入っていようとも、しかつめらしい顔になるどころか、思わず顔がほころんでしまうということは、きっと、その試みには成功しているということだろう。ほんと、苦笑するネタが多いでっせ。



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寺山修司没後20年 「われに五月を」 宇野亜喜良展
ガーディアン・ガーデン 銀座
クリエイションギャラリー G8 銀座<

第一線で活躍しつづけたビッグネームなアーティストにスポットライトを当て、コンパクトにそのキャリアを回顧する「タイムトンネル・シリーズ」。今回は、その17回として、宇野亜喜良氏が取り上げられた。リクルートの持つ銀座の二会場を結び、7丁目のガーディアン・ガーデンでは、グラフィックデザイナー、イラストレーター、画家としての代表的作品の展示。クリエイションギャラリーG8では、氏が中心となり10月に公演予定の「われに五月を」の舞台美術や衣装、関連デザインと、過去の舞台美術関連の作品の展示となっている。
宇野氏が颯爽と一世を風靡した60〜70年代。当時の時代の風の中ではもてはやされ、それなりに活躍し、人気者だったデザイナーやイラストレーターも数多い。しかし、そういう表面的な時代のフォロワーは、パクるネタがつきれば、それが運のつきである。小賢しく、新しいネタを見つけては生き残ったヒトもいるが、所詮は自転車操業である。しかし、本当のビッグネームというのは、出てくるところが違う。そもそも、自分がマイペースで背負ったものの中から創り出してきたものが、それぞれの時代と交錯する所々で、結果としてすばらしい輝きを発揮する。
宇野氏の半生にわたる作品群をみていると、そのような時代を越えたところにこそアーティストの本質があり、そういう人でなくては、ホンモノとして生き残れないコトがよくわかる。さて、宇野氏自身寺山氏とは深い縁があり、この展覧会も、「われに五月を」の公演も、寺山修司没後20年の追悼企画となっているが、この時期の寺山氏の周辺には、そういうホンモノの個性を持った傑物が実に多かったことをあらためて実感する。最も時代にフロンティアがあったのか、それとも特異点として傑物が多かったのか。日本のあの時代ってなんだったんだろうかと、改めて問いたくなった。



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荒木経惟 花人展
東京都写真美術館 恵比寿

いまやアート界では神々しささえ感じさせる存在になった大先輩、アラーキー師匠。今回の展覧会は、女性(女体といったほうがいいかな)とならんで、師匠の永遠の被写体でありつづける「花」にスポットライトを当てた企画である。師匠の「花」の作品との出会いといえば、あの「写真時代」誌上での性器を思わせる淫靡さあふれる、花弁のクローズアップ写真が多分最初だったと思われる。その当時は、南伸坊氏のパロディックなコラージュなどと同じ印象で、文化のフリしてエロ、と対をなす、エロのフリして文化、というか、この雑誌の基本スタンスである、世の中の絶対的な価値なんてあり得ないという姿勢を具現化したもの、ぐらいにしか思っていなかったのも確かだ。
しかし、師匠にとっては「花」に対する思い入れは、そんなモノではないようだ、ということはもっと後になってから気がついた。そもそも、人間と花との接点とは、極めて虚構的、欺瞞的なものである。花は人間がいようがいまいが、見られようが見られまいが、花なのだ。そして、花は植物のごく一部でしかない。その花の、割いている瞬間だけ取り出してきて、意味をつけたり、愛でたりしているのは、人間のかってな思い入れである。そもそも植物だって、自分の都合で生きているのだ。庭の手入れをしていると、いろいろな植物の、いろいろな姿に出会う。実に、多様で多彩な表情を持っていることに気付く。
それはたとえば、植物と同じ地平、空間に生きている昆虫の目からみれば、かなりリアルにとらえられているのだろう。ここに展示されている作品を「通して」見て気付くのは、花をとらえるアラーキー師匠の目が、一般の人間の目ではなく、植物の地平、空間に素直に入り込んでいる点だ。人間社会の理やタテマエに毒されていない、ムクなホンネの視線。これは、アラーキー流「エロ」の極意が、無防備な表情のリアルさにあるのと同じだ。それはとりもなおさず、業から解脱しているということでもある。はじめに書いた、ある種の神々しさの秘密は、この辺にあるのかもしれない。



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椿会展2003 「小品考」
資生堂ギャラリー 銀座<

2001年の資生堂ギャラリーのリニューアルを記念して復活した、栄光のゴールデンネームを冠した企画展も3回目となった。児玉靖枝、世良京子、辰野登恵子、堂本右美、三輪美津子、山本直彰、青木野枝、イワタルリ、鷲見和紀郎の9人のアーティストが、2001〜2005の5年間にわたる合同企画展シリーズも、折り返し点を迎えたことになる。
今回は「身の丈」サイズの「小品」をテーマに、作品の原点に立ち返った表現を追求している。流石に三回目ともなると、段々ノリが合ってくるというか、それぞれの作風を追求しながらも、企画展としてのテーマ性、イメージの共有化が感じられる。このあたりが、キュレーターの狙い所でもあるのだろう。
個々の作品も、小品というコンセプトを生かしなかなかいい感じが出ている。特に、ギャラリーへのアプローチの空間を活かして展示された児玉氏の作品は、日常的な空間をじゃましない、一見何でもないように見えながら、作品としっかり対峙すると、実に斬新なインパクトがあり、今回のテーマが生きている感じがした。



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02TDC展
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

毎年恒例の東京タイポディレクターズクラブによるTDC展である。ということで、毎年恒例であるが見に行く。年末恒例の「今年の重大ニュース」ではないが、けっこうその年、その年の世相を反映していて、そういう面でも興味深い。やはり、世の中にエネルギーがあると、「商業美術」たるグラフィックデザインもパワーを持つというコトなのだろうか。
さて、今年のTDCは、そういう意味ではちょっととまどった。もうちょっと突き抜けてるかな、と思っていたのだが、全体的に元気はイマイチ。ガツンと一発、強力なインパクトがなく、どちらかというとチマチマと微に入り細に入る部分のほうでコダわっている傾向が強い。確かに、日々見かけるデザインはそうなんだけれど、なんかこういうご時世だからこそ、賞の選考においては、もっと冒険して欲しかったという感じがなきにしもあらずである。
連休中という時節柄か、美大生らしき若者を中心に、gggにしては珍しいぐらいの入りだった。しかし、美大生くん、なぜか必死に文章でメモをとっているコが多い。デザイナーの名前だの、スペックだの一杯書き込んでいる。おいおい、見に来て学ぶべきは、そういうところじゃないと思うんだが。これも、ぎょーかいオジさんのグチなのだろうか。



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