Gallery of the Week-Feb.05●

(2005/02/25)



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グローバルメディア2005 /おたく:人格=空間=都市
東京都写真美術館 恵比寿

毎年恒例の文化庁メディア芸術祭と連動して開催され、第三回目を迎える「グローバルメディア」展。今年の目玉は、ヴェネチア・ビエンナーレ第9回国際建築展・日本館で行われた展示である「おたく:空間=人格=都市」の凱旋展として行われる、その再現展示。食玩による「イコンの変遷」からスタートし、「おたくの個室」「レンタルショーケース」「コミックマーケット」「秋葉原」「オンライン・コミュニティー」という6つのサブテーマで、「おたくと、リアル・ヴァーチャルな「空間」」の関係を見せてゆくという展示である。
さて、厳密に言えば「食玩」、「秋葉原」が出ている以上、これは「おたく」ではなく、「オタク」のハズである。「コミックマーケット」も、「売りに行くコミケ」ではなく、「買いに行くコミケだ」。ヨーロッパで行われた展示、ということを考えると、これは致し方ないだろう。彼の地では、もっともエッジなポップカルチャーとしての「オタク」に興味があるのであり、70〜80年代の「オルタナティブカルチャー」としての「おたく」には興味はない。彼らにとっては、「オタク」はクリエーティブな文化ではなく、100%消費的な文化であるからこそ美しいからだ。
そういうこともあって、内容的に「おたく」と「オタク」の混同がはなはだしく、随所に見られる。しかし、それは仕方のないことだ。けっきょく、「美術界」の側から「おたく」的なモノが視野に入りだしたのは、消費者としての「オタク」文化が生まれて以降だからだ。「おたく」が「おたく」でいるかぎり、その創造性は、あくまでも「オルタナティブ」の側のモノでしかなかった。それは、「アート」の側からは、軽蔑の対象ではあっても、モチーフとして着目する対象ではなかった。そう考えてみると、美術側からの「オタク」モチーフの利用というのは、60年代ポップアートの方法論の正当な後継者ということもよくわかる。やはり消費者でしかない「オタク」というのは、何とも無害なことか。



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ローラ・オーエンズ展
資生堂ギャラリー 銀座

2003年、ロサンゼルス現代美術館で史上最年少の個展を開催して以来注目されている、アメリカの若手アーティスト、ローラ・オーエンズの日本初個展。新作を含む大型ペインティング6点、ドローイング17点による構成である。多彩な素材を利用した独特な手法を用い、具象画から幾何学構成による抽象画まで、幅広い作品を見せてくれる。
このように作品自体は、最終的には「キャンバスや紙の上に固定された、2次元の平面作品である」という意味では、広い意味での「絵画」には違いないのだろうが、具体的もしくは抽象的なイメージを、平面上に各種材料を使って再現する、という「古典的な絵画」の定義にはとても入り切らない。平面上に構成するプロセス自体が、ある種のメッセージになっている作品が多い。
そういう意味では、「二次元インスタレーション」とでも呼んだ方がふさわしい表現である。しかし、この「絵画を超越したアート作品」が資生堂ギャラリーの空間に並べられたとき、まさに資生堂ギャラリーが「絵画」を並べた「画廊」に見えてくるのだ。これほどまでに、この空間が「画廊」の風合を放っている展示は、今まで見たことがない。
資生堂ギャラリーの企画の面白さの一つは、この限られた空間自体をどう演出し、展覧会自体を一つの表現、一つの作品としているかという楽しみがある。そういう意味では、きわめて王道ではあるのだが、「その手もあったか」という「やられた感」が強い。もしかすると、一番の見所はそこかもしれない。



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バラリンジ・デザイン展 古代の文化と現代のデザイン
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

オーストラリアの先住民アボリジニの血を引く、オーストラリアのグラフィックデザイナー、ジョン・モリアティ氏と、その妻ロズ氏が率いるデザインオフィスであるバラリンジ。伝統のアボリジニアートのモチーフや意匠を活かした独特なデザインワークで、20年以上にわたって活躍してきた。その業績を振り返る企画展。
今ではすっかりオーストラリアを代表する図柄として知られるようになった、アボリジニの伝統的な意匠。それを、単に先住民族としての歴史的アイデンティティーや、失われた伝統文化の復活という視点ではなく、オーストラリアを代表する独自のイメージとして現代のデザインワークの中で活用してゆく。ここが、バラリンジと、他の伝統工芸アーティストの決定的に異なる点である。
もっとも、この流れをキチンと理解するためには、オーストラリアという国の歴史や文化に精通する必要があるが、そこまで深い理解はない。しかし、元々アイデンティティーを持たないヨーロッパからの植民者と、アイデンティティーを奪われつづけた先住民という関係は充分に理解できるし、それだからこそ、オーストラリアの人達が、よりどころとなる文化的アイデンティティーを必要としたこともわかる。
そういう意味では、不幸な歴史も含めて、希有なケミストリが働いたからこそ、こういう伝統文化の現代的再構築が可能なのだったと思う。オーストラリアには、カンガルーに代表される有袋類のように、動植物についても、地球上の他の国々とは異なる独自の世界がある。そういう意味で、文化にも、独自のポジショニングが成り立つんだろうな、と、ふと思った。



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森山新宿荒木展
東京オペラシティーアートギャラリー 初台

日本の写真表現史上の革命家である、森山大道氏と荒木経惟氏。この二人が昨年の夏、ともに縁の深い新宿で一緒に撮り卸した新作を中心に、「新宿」をキーワードにした過去の作品をぶつけあう、アートの格闘技ともいえる二人展。森山氏は60年代末から70年代はじめ、荒木氏は70年代末から80年代と、大ブレイクした時期は違うものの、実は同世代であり、初めての顔合わせということで、事前の場外戦でも大いに期待を持たせる。
両氏の活躍は、どちらもリアルタイムで見ていたのだが、それだけに「同じ世代」ということを聞いてビックリした。その活躍時期の差は10年はないと思うのだが、その間で、表現としての写真は一回死んでしまったからだ。そういう意味では、旧来の写真表現手法を踏まえつつ、それを完全に破壊したのが森山氏なら、全く違う視点から表現としての写真を再構築したのが荒木氏というところだろうか。
とにかくビックリするのは、昨年の夏に撮りおろした作品も、森山氏は60年代末の香りがするし、荒木氏は80年代の香りがする点だろう。両氏が並んで歌舞伎町やゴールデン街を廻り、同じモノを見つめシャッターを切ったことは、同録されたヴィデオを見れば明白なのだが、それ以上に、各氏の過去の作品との一貫性の方が強く感じられる。これが、ビッグネームの個性というものだろう。
それと同時に、新宿という街は、実は自分自身の個性や主張は持たず、なんでものみ込んでしまう街であることを、改めて感じさせた。最先端も、時代の底に沈殿したモノも同時に存在する。そこには確かに、今でも60年代的なヒト、70年代的なヒト、80年代的なヒト、等々が同時に存在できる不思議な空間がある。ぼくは、今では西新宿にのみ込まれてしまった中野の外れで育ったので、新宿は東口の旧駅舎、西口のヤミ市崩れのマーケット(今の小田急百貨店のところ)があった頃から知っているが、そういえば、昔から一種のアジールともいえる包容力を持っているところにこそ特徴があった。それをて思い出させてくれた。



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