Gallery of the Week-Dec.06●

(2006/12/22)



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日本のデザイン黎明期の証人 早川良雄
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

戦前から、美術・デザインの分野で活躍し、戦後のグラフィックデザインの勃興期を西の巨人として支え、今もなお存命で活躍中の早川良雄氏。ポスターやエディトリアルといった、代表的なグラフィックデザイン作品だけでなく、早川氏ならではの絵画作品も含め、その足跡を振り返る展覧会である。
グラフィックデザインも、最初は「商業美術」だった。日本のテレビの創始期には、映画、演劇、音楽、演芸をはじめ、ありとあらゆるパフォーミングアート出身の人材が集まり、その切磋琢磨の中から、新しくオリジナルな方法論を創りあげていった、同様に、戦後グラフィック・デザインの創始期には、意匠系、工芸系、アート系と、二次元表現に関るいろいろな人材が関わってきた。
最終的には、システマティックな手法にアーティスティックな表現を加える流れが、デザイン界の主流となるのだが、早川氏は、一貫して絵画的な方法論や発想をベースに、商業作品として求められるモノを盛り込み作品を構成してきた。世の中が写植の時代になってもなお、手書きのタイポグラフィーへのコダわりを見せている点など、その典型的な例だろう。
まさに高度成長期までは、東西対抗というか、東京と大阪というのは、対照的な二つの極をなしていた。そういう意味では、大航海時代以降の近世の歴史しか持たない「東京」のデザインが、ある種の工業的生産性をベースにしていたのに対し、早川氏の手法が、伝統と人間を踏まえたスタイルであったことは、古代以来の歴史と伝統を持つ関西の雄にふさわしいものであったと感じることができる。



12/4w
球体写真二元論 細江英公の世界
東京都写真美術館 恵比寿

年末進行をニラんで、ちょうど写真美術館で興味のある展覧会を同時開催していたこともあり、今週は2週分一挙にまとめて行ってみよう。この展覧会は、1950年代末から活動をはじめ、60年には日本の写真のスタイルを創り上げる活躍を行い、その後も今に至るまで現役で足跡を残している、現代日本写真界の大御所、細江英公氏の足跡を、主として東京都写真美術館の収蔵品で振り返る企画展である。
ハイキー、ローキー、いずれにしろ極端なトーンで、肉体をオブジェとして捉えるその独特の作風は、まさに写真に限らず、「日本の60年代の風」を代表する存在のひとつである。それは単に、60年代にフォロワーが多く現れ、そのスタイルが増殖し大流行したからだけではない。その時代を何らかの形で共有した人々なら感じられる、時代の「気脈」がフィルムの中に定着しているからだ。
ぼくも、数年後ではあるものの、比較的リアルタイムに近い時点で、初めてこれらの作品に出会った。その時の、緊張感や興奮が、一枚一枚のプリントを見るなか、あらためて蘇ってくる。その放射能のようなエネルギーの元が、時代の気脈なのだ。これは、撮ろうとしても撮れない。しかし、撮ろうとしなくては撮れない。
この時代性の追体験を味わったあとで見る、70年代以降の作品には、今度はある種の悟りの境地が感じられる。ある到達点を極めたヒトしか出せない、一瞬で全てを見切るような視線。60年代の日本で「とんがっていた」ヒトに共通する、時代を超越したスケール感の源は、どうやらこのあたりにあるのではないか。そんなコトまで思わせる写真展である。



12/3w
コラージュとフォトモンタージュ展
東京都写真美術館 恵比寿

技法としてのコラージュは、古い歴史を持っているが、どちらかというと工芸的だったその手法が、写真という表現技術と結びつくことで、一気に作品を表現する技法としてクローズアップされてきた。この1世紀半にわたる、写真とコラージュの蜜月を、実際の作品で振り返る企画展である。
初期における写真とコラージュの関係は、作者の内的表現というよりは、まだ不充分な写真技術を補うためのテクニックだった。この時代においては、技術的に一つの露出で撮影不可能なシーン、たとえばラチチュードを越えた極端な明暗や、画角を越えたワイドな風景などを、印画上に焼きつけるための手法であった。
今世紀に入り、技術の発達でそのようなニーズがなくなった。その一方でコラージュは、折からの現代美術の勃興にあわせ、写真を組み合わせることで、現実にないモノや、カタチのない観念的なモノを、アート作品として表現する手法へと進化した。バウハウス等のモノまねとして、戦前の日本でも一世を風靡した痕跡は、あらゆるところで目にすることができる。
そして、写真そのものがアート表現として確立するとともに、表現としてのコラージュは衰退する。しかし、写真のディジタル化とともに、商業写真においては、フォトショップ等によるポストプロ作業は必須のものとなった。その中で、コラージュは基本的なテクニックとして、しぶとく生き残っている。まさに、技術として生まれたモノが、一時表現としてもてはやされ、ふたたび技術として定着するという、テクノロジーとアートの関係の一部始終を、ここに見ることができるという意味で、大いに学ぶべきものがある。
さて、本筋とは離れるのだが、この展覧会で得た思わぬ収穫がある。それは、1870年代の日本で、「ヌード写真の首を挿げ替える」という、いわゆる「アイコラ」が行われていたという事実である。人間の本質は、100年経ってもまったく変わらない。まったくもって懲りないヤツだ、というコトが、何よりよくわかる(笑)。



12/2w
横木安良夫写真展 「Teach Your Children」-1967-1975 あの日の彼 あの日の彼女-
ロゴスギャラリー 渋谷

写真家としても、作家としても活躍する横木安良夫氏が、プロカメラマンとしてデビューする前、1967年から1975年にかけて、首都圏で撮影した、当時の若者の生活や風俗を捉えたパーソナル・スナップショットの作品群を、30年の時を経て蔵出しし、新たに構成した写真展である。
ポイントは、まさにパーソナルショットであるという点。当時の若者を題材にしたアーティスティックなショットでも、時代の尖端を捉えたジャーナリスティックなショットでもなく、あくまでも等身大の作者が、見て、感じたモノをそのまま捉えた自画像とでもいえる私作品となっている。
1967年から1975年といえば、ぼくにとっては、中学に入る前から、大学に入るトコロまで、ちょうどティーンエージャーだった時代とシンクロする。そういう意味では、自分自身が、作者と同じような視線で、同じような対象を見つめていただけに、ワンカット、ワンカット、そこに沸き起こる思い入れは、半端なモノではない。
それだけでなく、中学・高校時代は、写真部に所属し、ロッコール21mm F4なんてレンズ(このレンズには、いろいろとサイドストーリーがあるのだが)をミラーを上げたSR-Tにつけ、写真家気取りで時代を切り取った(つもりでいた)りしていただけに、それぞれのコマが、自分の視線が捉えていた何かのような気さえしてきてしまう。あまりそういうことはないのだが、感きわまって、即、写真集を購入してしまった。



12/1w
江戸の誘惑 ボストン美術館所蔵肉筆浮世絵展
江戸東京博物館 両国

明治時代に来日し、浮世絵に関する膨大なコレクションを収集したウィリアム・ビゲロー氏。そのコレクションは、ボストン美術館に寄贈され、主要な収集物の一つとなっている。その中から、日本初の公開となる、浮世絵画家の肉筆による絵画作品80点を選び、紹介する展覧会である。
ビゲローコレクションといえば、その名前は有名だが、あまりにも膨大なアイテム数のため、作品の整理が進まず、近年になって初めて体系的な調査が行われたという。浮世絵に取り憑かれた男、とでもいうべきだろうか。こういう個人コレクターが登場し、そのコレクションを公に寄贈してしまうところが、またアメリカのとんでもないところでもある。
それにしても、スゴい収集欲と収集力である。10年近く日本に滞在し、これだけのコレクションを集めてしまうのだから、恐れ入る。当時の時代性や、日本文化に対する評価といったものもあるとは思うが、一国のある文化を、ほとんど網羅してしまうようなコレクションを個人が築けたというだけでも、今から考えると驚くべきモノである。
浮世絵画師の肉筆作品自体、数も限られており、目にする機会は比較的少ないのだが、やはりビッグネームな作家は、構図や色使いのみならず、タッチや筆の勢いにも個性があふれている。それを見比べられるというだけでも見る価値は大いにあるといえるだろう。



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