Gallery of the Week-Mar.10●

(2010/03/26)



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第2回 写真「1_WALL」展
ガーディアン・ガーデン 銀座

「ひとつぼ展」からヴァージョン・アップし、第2回を迎えた写真「1_WALL」展。いつも、写真の新しい傾向を先取りするような審査が行われているが、今回の特徴としては、1980年代中盤生まれの、比較的若い世代のアーティストが中心となっている点があげられる。いわば、ポスト銀塩世代である。そこから生まれてくるパラダイムシフトが、今回の見どころといえるだろうか。
ディジタル化された写真によるアート表現も、初期においては「ディジタル」という新種のフィルムを利用したカメラで撮影した写真作品、という枠内にとどまっていた。しかし、ディジタル・プロセス自体がコモディティー化すると、その由来はなんでもよくなり、「ディジタル画像を、二次元上のカタチあるグラフィック作品化したモノ」と再定義され、領域が拡大されてきた。
まさに、そういう時代を先取りするような作品が、今回集められている。あくまでも「組写真構成による写真展」というニュアンスの残っていた「ひとつぼ展」から、「1_WALL」展となることで、壁面全体でのインスタレーション作品という表現が強まってきたことも、この傾向とマッチし、新たな挑戦への可能性を拡げているといえるだろう。
この、新しい定義としての「写真」は、ブラックボックスのインプット(現実か合成か)という意味でも、アウトプット(純正はフェイクか)という意味でも、どちらの意味でも、リアルとヴァーチャルの壁をやすやすと越えてしまう。ある意味、リアルとヴァーチャルの壁と闘うコトが、人類の歴史と共にあるアート表現の「性」の一つとするなら、ここに至ってついにその壁を無意味化してしまいつつある、ということができるだろう。しかし、この壁を破ったからといって、そこには「タンジブル」と「アンタンジブル」という別の壁が、高くそそり立っているコトも事実なのだが。



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森村泰昌*なにものかへのレクイエム -戦場の頂上の芸術
東京都写真美術館 恵比寿

今週は、久々の有料展覧会。それも、大物である。80年代から、名画や映画のワンシーンなどに自らが「なりきった」写真作品を発表しつづけてきた森村泰昌氏。今回の展覧会は、21世紀に入って彼が手がけてきた、政治家や芸術家など「20世紀の男たち」を代表するカットになりきる新作シリーズ<なにものかへのレクイエム>の完全版を、四章構成で2フロアに渡って展開している。このシリーズでは、今までの写真作品に加えて、映像作品も発表し、「自分でない他者でもあるポートレート」から大きく飛躍し、演劇のようなパフォーミング・アートとしての側面も兼ね備えている。
それだけでなく、扱うテーマが大きいだけに、パロディーという面でも一段とパワーアップし、シリアスなアートという枠から大きくハミ出し、お笑い芸としてみても、極めて完成度が高いものとなっている。誤解をおそれずに言えば、色物の中に「モリムラ」という芸の領域が確立し、森村氏が、それを名人芸の域にまで昇華させたということだろうか。とにかく、既存のジャンルを越えて楽しめる、極めて深い「何か」が生まれてしまったというべきだろう。
それは何も、アート作品としての価値を貶めるモノではない。今や学校では、クラスの中でトップクラスに地アタマのいい子ほど、「クラスの中の人気芸人」というポジションを取りたがり、将来はお笑い芸人になりたいというようになった。まあ、関西では昔からそうだったらしいが、そういう意味では全国が関西化したといえるかもしれない。芸人で笑いが取れること、お笑いとして評価されることは、いまや一番の社会的勲章なのだ。
作品の中には、ある種の社会的な記号が、パロディーとしてふんだんに埋めこまれている。これをストレートな表面的な意味で読み取り、社会的な作品と見るのか。社会的にエスタブリッシュされた問題すらも、ギャグのネタとして消費してしまう、超弩級のお笑いと取るか。多分、どちらも真実であるが、森村氏自体は、そのどちらも越えた高みから、過去のコンテクストにとらわれてる観客を醒めた目でみているのだろう。その構図自体が、最大のインスタレーションなのかもしれない。



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DNPグラフィックデザイン・アーカイブ収蔵品展III 福田繁雄のヴィジュアル・ジャンピング
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座

福田繁雄氏の逝去から、早くも1年。福田氏の遺族からDNPグラフィックデザイン・アーカイブ寄贈された、氏が所有していた約1,200点の全ポスター作品の中から100点を選び、福田氏の業績を忍ぶ回顧展である。世の中的には、デザイナー・アートディレクターよりも、トリックアートのアーティストとしてのほうがより知られている感もあるが、ポスター作品ということで、グラフィック・デザインにおける氏の存在感を改めて確認できる。
一貫して流れる独特の画風もさることながら、やはり通底しているのは、ユーモアとウィットに裏打ちされた明るさであることに気づかされる。メッセージ性の強い作品も数多く発表しているのだが、プロテストアート的な暗さや説教臭さは微塵も感じさせず、スマートでシニカルな笑えるメッセージとすることで、より幅広い人々に共感を呼ぶ作品となっているのも、この作風ゆえである。
劇画で描くと救いようのない画面になってしまうストーリーも、マンガで描けば希望とのぞみが見えてくるコトも多い。手塚治虫氏が、このあたりは、晩年に到達したひとつの境地と思うが、それに似た構造を感じてしまう。柔よく剛を制すというか、北風と太陽というか。若気の至りで、「これでもか」と主張を全面に出した作品を作ってしまうヒトには、改めて福田氏のフトコロの深さを感じて欲しいものだ。



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shiseido art egg vol.4 村山悟郎展
資生堂ギャラリー 銀座

三月になっても、相変わらず時間がない。ということで、今週もお手軽ネタとなってしまい、相済まない限り。今月は、せめて一つくらい、ちゃんと有料の展覧会に行きたいモノである。そんな流れで、3月は第4回shiseido art eggの締めくくりとしての第三弾、村山悟郎氏の登場である。
今までの二氏の作品が、ギャラリー全体を作品とする、大胆なインスタレーション作品だったのに対し、今回は大ネタではあるものの、比較的オーソドックスな「作品」の出品であり、資生堂ギャラリーの空間が、文字通りギャラリーとして機能している展示である。
基本コンセプトは、かつてCGの創成期にもてはやされた「フラクタル図形」よろしく、一定の法則性を元に組み立てた構造をベースに作品を構築すること。作者が得意とする、あるルールに基づいて麻紐を編んだ織物の上に下地を作り、その上に描画した作品と、作画ルールを元に、手書きで描きあげた壁画(こちらの方が、まさにフラクタルっぽいである)。
CGのフラクタルは、あくまでも見た目の面白さ・不思議さを楽しむ習作の域を越えることはできず、表現作品とは言い難かったが、このアナログ・フラクタルといえる作品群は、そこはアナログ化することで、完全にクリアした作品となっている。ディジタルの時代だからこその、アナログの意味を改めて問うている感じがする。
ところで、今回のshiseido art egg、最初の曽谷朝絵氏の、掟破りともいえるインパクトが強過ぎたため、今回の村山氏の作品が、実はそれなりにシュールな世界であるにも関わらす、非常にオーソドックスな美術作品にみえてきてしまう。イベント全体のインパクトというコトを考えると、3人のアーティストを逆順で紹介した方がよかったのではないだろうか。そういう気がする。



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