Gallery of the Week-Aug.12●

(2012/08/31)



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第7回グラフィック「1_WALL」展
ガーディアン・ガーデン 銀座

今年も、夏の「1_WALL」展がやってきた。このところ「1_WALL」展は、毎回毎回テーマがあって、主催側でかなり意図的なセレクションをしているのではないかと思わせるような、はっきりとした傾向が見て取れる。それはそれで、常に時代の今を意識しているこの公募展にはふさわしいし、毎回見ていて面白いと思う。
それにしても、今回はかなりのクセ玉である。作者のメッセージ以上に、この展覧会が見る人に強いるモノが強力にアピールする。この6つの作品の組合せを読み解くには、両極端の二つの方法しかないだろう。一つは、何も難しいことは考えずに、エンタテイメントのように、楽しい・面白いという、自分の内面のリアクションのままに対応すること。もう一つは、作品の表面に現れているものを一切捨象し、純粋に作者のモチベーションだけを読み取ること。
どちらにしろ、表面的な表現の意味性や記号性から自由になるところでは共通している。そこまで考えてやっているのではないのかもしれないし、偶然の産物なのかもしれないが、教養や知識をベースに、作品に込められた記号性を読み取るという、旧来の作品理解のスキームが、行き酢仮破綻しつつある時代であることは間違いないし、それに対する踏み絵を突きつけているような感じがある。




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百年前の修学旅行 ハイカラさんと東京駅の時代
旧新橋停車場 鉄道歴史展示室 新橋
東京ステーションギャラリー復活前の、鉄道歴史展示室 片肺飛行状態での最後の展示は、「百年前の修学旅行 ハイカラさんと東京駅の時代」と称する、鉄道ネタよりの企画。なんと、今年はあまり話題になっていないが、大正100年に当る。これを記念し、やはりほぼ百年の歴史を持つ、復元なった東京駅と修学旅行の当時の姿をからめた、この館が比較的得意としている、鉄道と旅行の歴史系の企画展示である。
修学旅行は、大正時代の到来と行なわれた、奈良高等女子師範学校の卒業記念の研修旅行が嚆矢とされている。この展覧会では、東京を中心に関東を訪れた奈良高等女子師範学校の第一回修学旅行を狂言回しに、その時女学生たちが訪れた東京およびその周辺の名所旧跡の、大正初期の姿を振り返るものとなっている。
会場は大きく三部構成となっており、奈良高等女子師範学校をはじめとする当時の女子高等教育と修学旅行の歴史、日光を含む大正初期の東京の姿、東京駅と大正初期の鉄道、という流れが作られている。この館の企画はいつもそうなのだが、今回もタイトルと実際の展示コンセプトとの乖離が目立つ。修学旅行が、いかにもとってつけた感じなのだ。
これなら、「大正100年、東京駅100年」とでもしたほうが、よほど中身とフィットするのではないだろうか。そういう視点に立つのなら、それなりに限られたスペースの中でよくまとまっている展示だとは思う。しかし、気がつくと大正100年というのは、いわれればそうなのだが、けっこう新鮮な驚きがある。



8/3w
ドビュッシー 、音楽と美術 -印象派と象徴派のあいだで
ブリヂストン美術館 日本橋
クロード・ドビュッシーは、19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したフランスを代表する作曲家であり、音楽のみならずいろいろな芸術に造詣が深かったことで知られている。彼が活躍した時代は、世紀末からアールデコにあたり、音楽、美術、文学、演劇、ダンスなど、色々なアートが互いに影響し、新しい文化を作り上げていった時代でもある。この展覧会は、ドビュッシーを軸として、世紀末から世紀始めのパリのアートシーンを回顧する展覧会である。
ドビュッシーというと、音楽的な印象とはちょっと違い、その活躍時期は、日本で言うと日清戦争から第一次世界大戦という時代にあたる。日本でも、経済の発展とともに大衆社会が勃興しだした時代であることからもわかるように、ヨーロッパにおいては、社会的パラダイムシフトが大胆に起こった時代である。それだけに、表現すべき題材が多いだけでなく、新たなアートマーケットも勃興したわけで、この時代に、いろいろ新しい表現が模索され、登場したこともうなずける。
問題は、その変化の時代を表現するアーティストたちの軸足が、19世紀的なるモノにあるのか、20世紀的なるモノにあるのか、という点である。19世紀的なバックグラウンドからそれを表現したヒトたちと、20世紀的なバックグラウンドからそれを表現したヒトたちの間では、出てくる作品は大きく異なる。この時代の評価が難しいのは、そこに理由がある。ふと、ぼくらが小中学生の頃の、美術や音楽の授業を思い出してしまった。
会場には、ドビュッシーとストラヴィンスキーが一緒に写った写真が飾られている。時期的には、その活躍は完全にオーバーラップしているのだ。しかし、当時ドビュッシーは音楽の授業で取り上げられたが、ストラヴィンスキーは(好きモノの先生でない限り)取り上げられることはなかった。同じく美術の授業では、印象派は好んで取り上げられるが、分離派が取り上げられることはなかった。
20世紀アートも、80年代に入るとキチンとしたポジショニングが与えられるようになったが、それまでの時代においては、そこにある断層をどう評価するか迷いがあったことは確かである。個人的には、印象派をどう捉え、どう評価するかというのは、日本ではポピュラリティーがあるだけに、なかなか難物であった。今回の展覧会では、それにも答えが出せたような感じがする。



8/2w
田村彰英 夢の光
東京都写真美術館 恵比寿

夏休み進行ということで、安易な二段積みになってしまったが、お許し願いたい。そのストイックで独自な作風で、70年代から活躍する田村彰英氏。その40年に及ぶ活ユニークな躍を振り返る個展である。たとえば、70年代にすでにレトロだった二眼レフ「ミノルタ・オートコード」を使った、一連の定点観測シリーズを見ても、このカメラをこう使うのかと、その非凡なセンスにオドロかされる。
ちょっとマニアックな世界になってしまうが、この写真展では、各作品一つ一つのキャプションに、カメラやレンズなど、使用した機材のスペックが記載されいてる。カメラ雑誌に発表される作品などでは、使用した機材の説明が入るが、それとて一つ一つの作品毎ではない。掲載してある以上、作者からのメッセージがそこに含まれていることは明らかだが、見る人が見ると、コレが実に面白い。
なんでこの作品は、このレンズとこのボディーの組合せなのか、というのが、非常に必然性があるというか、わかる人にはピンとくるのだ。田村氏自身、写真教育の場でも活躍されてきたので、啓蒙というかお手本的な意味もあるとは思うが、撮るセンスがあり、なおかつカメラも好きという人にとっては、一粒で二度オイシイ写真展である。
機材集めにうつつを抜かしているものの、その活用という面ではカラキシだめという中古マニアも多いだろう。写さないのなら、不動品のジャンクと同じ。イマジネーションが機材を欲するとともに、機材がイマジネーションを刺激することもある。写真ファンだけでなく、カメラファンにも勉強という意味で、ぜひ見ていただきたい写真展である。



8/1w
自然の鉛筆 技法と表現 平成24年度東京都写真美術館コレクション展
東京都写真美術館 恵比寿

写真の技法と表現にスポットを当てた、「光と影の芸術 写真の表現と技法」をテーマとして展開される、平成24年度の東京都写真美術館コレクション展の第二弾。「自然の鉛筆 技法と表現」とタイトルされ、写真作品を写真展という形式で発表するためには不可欠な、印画のテクノロジーとプリント技術の発展と写真表現の進化の関係にスポットライトを当てている。
構成としては、原版とプリントという複製機能を持たない初期の写真、ネガポジ法と紙の印画の登場によるモノクロ写真の完成、カラー写真の開発から普及へという三部構成になっているが、歴史的流れを見てもわかるように、「紙の印画」の部分がメインであり、展示作品的にも圧倒的なシェアとなっている。
展示されている館蔵作品については、有名な作品も多く、東京写真美術館の別の展示でも、別の美術館の展示でも、はたまた写真集などの書物でもおなじみの作品も多く出品されている。しかし、作品本来の表現という意味ではなく、その時代の技術を反映した作例として展示されると、また新しい発見があることも確かだ。いつも言っているが、写真には作者が予期しない現実が写ってしまうだけでなく、技術的な時代性も反映してしまうことがよくわかる。
今世紀に入り、写真は完全にデジタルの世界に移行した。その分、銀塩写真の時代を相対化して見ることができる。かつての銀塩フィルム全盛期ならば、ダゲレオタイプ以来の写真の進歩は、トライXなりコダクロームなりエクタクロームなりに行き着く、リニアな一本道として捉えられていたのが、銀塩写真といっても写真の一つであり、相対的にはいろいろな写真のあり方がある、と捉えられるようになった。そういう時代だからこそ、このような技術視点の企画が、より意味を持つのだろう。



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