Gallery of the Week-Oct.14●

(2014/10/31)



10/5w
ジャック・ドゥミ 映画/音楽の魅惑
東京国立近代美術館フィルムセンター 京橋
「シェルブールの雨傘」「ロシュフォールの恋人たち」など、フランス流ミュージカル映画の世界を切り開いた、ジャック・ドゥミ監督。その全監督作品を紹介するとともに、それらの作品群を通して浮かび上がってくる一連の世界観をあぶりだす回顧展。昨年パリのシネマテーク・フランセーズで行われた展覧会の初のアジア巡回展でもある。
今回の展覧会は、シネマテーク・フランセーズの主催・企画・制作ということもあり、それぞれ数分づづでがあるものの、実際の映画のフッテージが、会場でオンエアされている。著作権の問題があり、通常はなかなか難しいのだが、やはり映画に関する展示であれば、実際の映像から、展示に関連するシーンを見れるというのは、インパクトが違う。
これらの作品の多くは、ティーンズの頃に見ているはずだが、何十年ぶりかにその映像を見るとやはり新鮮な発見がある。劇と一体化した歌曲のあり方は、ミュージカルとも違うし、オペラとも違う。ある意味、ヨーロッパ的な音楽劇の伝統を背負っているものの、映画ならではの表現とそれを結びつけたところが、ドゥミ監督のユニークなところであろう。これは、彼が映像作家としてはドキュメンタリー出身であることとも関連しているかもしれない。
映画音楽に関わるものの端くれとしては、やはりここまで映像と音楽がキメラ上に融合した表現というものには強く退かれるものがある。音楽劇までは書いたことがあるが、セリフと演技と歌が完全に一体化したものはやったことがない。確かにドゥミ監督のスタイル自体はいまや古典といえるものだが、表現形式としての可能性は、まだまだチャレンジできる可能性がある感じが伝わってきた。



10/4w
安西水丸展
クリエイションギャラリーG8 銀座
80年代、90年代のポップなイラストレーションを代表する、安西水丸氏。今年の3月に急逝した彼の生涯にわたる活躍の跡を振り返る回顧展。安西氏は、イラストレーターとして著名になる前に、10年以上に渡ってアートディレクターとして活躍していた、広告業界の大先輩でもある。天然なようで、実は完成度が高いその作風は、アートディレクターとしての経験の厚みの成せるワザであろう。
思い起こせば、氏がイラストレーターとしての活動を開始した80年代初頭は、パソコンや民生用ゲームマシンが普及しだし、今でいうディジタルの世界が急速に身近になリはじめた時代である。コンピュータグラフィックスやデジタルの映像・画像が登場し、実は単なる鉛筆やマーカーといった表現手段の一つに過ぎないにもかかわらず、過剰な期待を表現者も消費者も抱き始めた。それからおよそ20年間、平面表現においては手段と目的の偉大なるはきちがえが繰り返されてきた。
当時、「ヘタウマ」イラストが大流行した。広い意味で言えば、安西氏の作品もその枠組みの中で捉えられていた面がある。しかし、それは今となって後付けで考えると、ディジタル化で容易になる表面的な細密表現や質感表現はどこまでいっても、手段の開発であり、それが行き着いてしまえば、シンプルなラインで感情が表現できてしまうところにこそグラフィックの本質があるという直感的な予言だったのかもしれない。
まさに、イラストレーションの中で、人間でなくては創りだせないもの、人間でなくては表現できないものを突き詰めた作品は、ディジタルがケになり、見てくれの表面的なインパクトだけでは、誰も驚かなくなってしまった今だからこそ、その意味や価値を正しく捉えなおすことができる。かつては一定のクオリティーをキープするために技術が必要で、そのための修練がなければ「絵」が描けない時代が続いた。しかし、技術は手段であって目的ではない。この高度なバランス感覚は、もう一度学びなおす意味があるだろう。



10/3w
ディスカバー、ディスカバー・ジャパン 「遠く」へ行きたい
東京ステーションギャラリー 丸の内
日本万国博覧会が終了後の1970年10月から始まった、国鉄の大キャンペーン「ディスカバー・ジャパン」。このムーブメントは時代の空気をピッタリと捉え、広告キャンペーンにとどまらない、70年代を代表する一大社会現象となった、この展覧会は、40年前のディスカバー・ジャパンキャンペーンの制作物を核とし、そこに連なる70年代前半の社会・風俗・文化を回顧する企画展である。
個人的には、三つの側面から極めてインパクトの大きい展覧会である。まず一つは、なにより70年代が、即、中・高・大学から社会人へというもっとも多感な時期だったことによる。「70年代の生きた化石」などと揶揄されたりするが、まさに人格形成期。その時代に刷り込まれたものは、何を見ても鮮烈な想い出がある。
次に、この時代がある意味、鉄道の最後の黄金期だったことが上げられる。蒸気機関車の最後の5年間も含まれる一方、山陽新幹線の開通、東北・上越新幹線の建設と、新幹線が「新」ではなく正真正銘の「幹線」になったのもこの時代である。高度成長から安定成長へ。古いものと新しいものが、どちらも現役で同居していたこの時代が、鉄道趣味にとっても黄金期だったことは、今でもこの時代の車輌が一番人気があることからもわかる。
最後に、70年代の末には、もう広告の仕事を始めていた点だ。80年代以降、細かいところはいろいろ変化しているが、人々の生き様の根幹自体はそう大きく変わっていない。この今に続く時代の建設期間が70年代であった。ぼくが仕事を始めた頃は、当然、先輩方は皆70年代に活躍した人ばかりである。このキャンペーンのプロデューサーである藤岡和賀夫氏をはじめ展示されているポスターのアートディレクターやデザイナーには、一緒に仕事をしたことがある人も多い。何か個人的感想ばかりになってしまったが、同世代の人なら必ず楽しめる展覧会であろう。



10/2w
セミトランスペアレント・デザイン 退屈
ギンザ・グラフィック・ギャラリー 銀座
セミトランスペアレント・デザインは、10年以上に渡って活躍する、ウェブ広告を制作等で活躍するデザインチームである。リアルとバーチャルを一体化した独自のデザイン手法によるインタラクティブ広告制作で広く活躍している。近年では、単なるデザインにとどまらない領域にまで、その活動対象を拡大している。
今回の展示も、インタラクティブ・デザイン、グラフィック・デザインといった枠を大きく超え、現代アートのインスタレーションというべき作品となっている。それも、長年テクノロジを手名付けてきたセミトランスペアレント・デザインだけに、完全にテクノロジを表現の手段として使い切っているところはさすがである。
考えてみれば、デザインの手法と、アートの手法は、ヴィジュアル表現手段という意味では、何ら変わりがない。何らかの経済的・社会的目的性があってそのための手段としてヴィジュアルを使っているのか、純粋にヴィジュアルそのものが自分を表現する手段として使っているのか、それだけの違いである。
そういう意味では、この展覧会は「グラフィックデザイン(の手法)は、現代アートの夢を見るか」という刺激的なトライアルであり、それは表現手段として充分に成り立っているというのが答えだろう。そう思うと「退屈」というタイトルも、「経済合理的目的性なし」という意味に捉えられないコトもなく、なかなか意味深ではないか。



10/1w
第11回グラフィック「1_WALL」展
ガーディアン・ガーデン 銀座
またまたおなじみの公募展、「1_WALL」展の時期がやってきた。今度は第11回。まずはグラフィック「1_WALL」展が始まった。今年の「1_WALL」展で感じるのは、なにより「若々しさ」である。実際、作者も1990年前後の生まれが中心と若いのだが、それ以上に既存のコンテクストに囚われないところに、奔放な若さを感じる。
素材、カタチ、色。どれもある意味オーソドックスで、奇をてらっているわけではない。すべてリアルだが、それらが具象している意味性から自由なのである。垢にまみれた記号性をロンダリングし、そこの表面に見えているモノだけを頼りに、現実を再構築して行く。それは、本来表現の王道でもある。
メッセージ性のないコンセプチュアル・アートというものが成立し、それは非常に強い表現力を持っていることを実証している作品が多い。いわば表現のための表現、純粋表現である。それは、本来アートが目指すべき高みであろう。そういう意味では、表現界もいい方向に向かっているといえる。
いわゆる団塊Jr.、70年代生まれの世代が、ディジタルに代表されるような、表現を載せるメディアの転換期に当っていたため、表現そのものよりビークルにコダわる傾向が強かったのに対し、生まれたときからディジタルもアナログも、リアルもバーチャルも等価という世代だからこそ、そういう邪念に囚われず、純粋に表現のため表現に邁進できるということなのだろう。まさに、世代交代ということだろうか。




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