Gallery of this month-2019●

(2019/08/09)



18/06

流線型の鉄道 1930年代を牽引した機関車たち
旧新橋停車場 鉄道歴史資料室 汐留


旧新橋停車場鉄道歴史資料室の第51回企画展は、その名も「流線型の鉄道」。鉄道好き、乗り物好きにとっては、流線型という言葉・文字自体に特別な魔力があるのと、あの限られた展示スペースで、「流線型」などという途方もないテーマ(「流線型博物館」などどというのを本気で作ったら、大宮の鉄道博物館のスペースでもまだ足らない)をどう扱うかというい興味も湧いたので、時間を作って行ってみることに。

諸般の事情によりこの8月は非常に忙しく、時間の調整に追われている。その一方で急に暑くなって、なかなか体力がついてこない。そんな中でも新橋なら仕事のついでに寄ることもできるだろうということで、ちょっと足を延ばす。このところ古巣方面の仕事も限られているので、新橋は一月ぶりぐらいの感じで、けっこう久しぶりという感じもする。けっこう店や建物も変化しているようだ。

さて、まずは第一のポイント。この限られたスペースの中で、どのように「流線型」という壮大なテーマを扱うのか。それはかなり視点と見せるモノを絞って、ピンポイントのテーマでの展示というカタチで対応した。一つは、1930年代のデザイン運動としての「流線型」ブームと、その中で鉄道という存在が果たした役割。これは主としてパネル展示である。もう一つは、主としてOスケールや零番の模型による流線型車輌の展示である。

前者の展示は、アール・デコから未来派、モダニズムなど、現代的なスピード感の美学がもてはやされた1930年代のデザイン状況をバックに、主としてアメリカではあるが、当時勃興してきた大衆社会のマス・ムーブメントの中で流線型がいかに人々を熱狂させたかをベースに置き、その中で1930年代における鉄道の社会的ポジショニングと、流線型ブームのかじ取り役としての存在を浮き彫りにしている。

シーネツエッペリンとフリーゲンター・ハンブルガーに始まるヨーロッパの流線型は、未来派やバウハウスの本場だけに、あくまでも機能とスピードの限界への挑戦の中で、その形を研ぎ澄ましてきた。これに対し大衆的なブームが主導したアメリカでは、工業デザイン的な流行となり、自動車も日用品も家具や家電品も、すべてが丸くて鋭い形になってゆく。まだ国富が充分ではなかった日本では、気分的にはアメリカ的な大衆ブームとなったが、実際には鉄道が主導してそれを実現した。

実際そうなのだが、きちんとこの実態を割り切って捉えた視点は少なかったので、この点今回のキュレーターは中々のものである。旧国鉄の流線型の張本人である島秀雄元技師長は、実は「カタチから入る」人で、舶来・ハイカラ大好き。海外のカッコいい車輌があるとすぐ真似してしまうというのは、鉄道とデザインの両方に詳しい人の間では常識であるが、この点にも鋭く切り込んでいた点は評価できる。

Oスケールや零番の模型展示は全体の半分を占めるが、流線型コレクターの小野直宣氏のコレクションからの展示である。比較的新しいスケールの模型もあるが、リアルタイムで1930年代に作られたC5343、C55、EF55といった国鉄型流線型の3線式零番の模型や、やはり同時代の子供向けの流線型玩具のコレクションは、当時の人がどういう目線で流線型を見つめていたかという視線も感じさせてくれて興味を惹く。

その他世界各国のOスケール流線型車輌のコレクションの中にも、結構古いモノが混じっているようだが、このあたりになると製品というよりは西洋版「原コレクション」とでもいうような、コレクターが特注で作られた作品も混じってくるので、それぞれの詳しい来歴は全てわかるわけではない。このあたりは、もう少し解説を付けて展示してくれた方がよかったかもしれない。

確かに流線型は機能性や速度の追求といった合理的な目的から生まれたものかもしれないが、流線型ブームはそれとは全く関係なく、機能性や合理性を犠牲にしても見た目とカタチのスマートさを極めるところが本質である。この違いがわからないと、流線型の本当の魅力はわからない。鉄道ファンはしばしばそこをはき違えがちだが、デザイン的な視点からそこがきっちり押さえられている点はなかなかよかった。

限られたスペースではあるが、無理して情報を詰め込まず、企画した側のメッセージが伝わってくるという意味では、なかなか楽しい展覧会である。そう、アメリカというのは1950年代〜60年代のクルマの「テールフィン」のブームのように、カッコいいと思いだすと、機能や合理性を無視してそこを追求する国なのだ。そういう意味では、アメリカがアメリカらしくなったきっかけが流線型ブームということもできるだろう。そんなことまで感じさせてくれた。。











18/07

みんなのミュシャ ミュシャからマンガへ-線の魔術
Bunkamura ザ・ミュージアム 渋谷


7月はとにかくスケジュールが忙しく、時間的余裕が取れない日が続いている。そうこうしているうちに、下旬の声が聞こえてきた。このままでは原稿落ちになってしまう危険性も出てくる。ということで、近場で探すとBunkamura ザ・ミュージアムでミュシャ展をやっている模様。ここなら東急の株主優待券も使えるのでラッキー。ということで、仕事のついでに渋谷で途中下車と相成った。

ミュシャといえば、アール・ヌーボーを代表するという以上に、その様式を築き上げたアーティストであり、その後のアート界に大きな影響を与えたのみならず、直接その画風を受け継ぐ画家やイラストレーターも数知れない。サラ・ベルナールをモデルとしたポスターは19世紀から20世紀への変わり目を代表するヴィジュアルとして、ほとんどの人が見たことがあるだろう。

今も変わらぬ人気と影響力を誇るミュシャが亡くなってから、今年は80年目という節目に当たる。この機会を捉えて、ミュシャの生涯を回顧すると共に、その影響がその後の時代にどのように広まったのか、そしてこの日本ではどのような流れが生まれたのか、「ミュシャ後」といえる部分まで含めて幅広く見せる企画展である。

全体は5部で構成されている。第1部は「ミュシャ様式へのインスピレーション」と題して、チェコ生まれでウィーンやパリで画家の修行をしたミュシャが、どこから影響をうけてどのようにその独自のスタイルを築き上げたのかを、彼の集めた美術品のコレクションやポスター作家として名声を得るまでの絵画作品から掘り下げる。第2部は「ミュシャの手法とコミュニケーションの美学」と題して、主として書籍や雑誌の装丁や挿絵を手がける中から、「線の画家」としてイラストレーターとしての地位を確立するプロセスを見せる。

第3部は「ミュシャ様式の「言語」」として、リトグラフポスターにおけるイラストレーター兼デザイナーとしての名声と実績の確立とその後の祖国チェコでの活躍を見てゆく。続く第4部は「よみがえるアール・ヌーヴォーとカウンター・カルチャー」として、1963年にロンドンのV&A博物館で行われたミュシャ回顧展以降、モダニズム隆盛の中で忘れられていたミュシャが復活し、そこから影響を受け生まれた数多くの作品の中から代表的な物を紹介する。

最後の第5部は「マンガの新たな流れと美の研究」として、日本におけるミュシャの受容とその影響の広がりを見てゆく。世紀の変わり目の当時、日本においてもアール・ヌーボーがブームとなり、その代表としてミュシャは大いに「引用」された史実を、現物をもとに振り返る。そして60年代以降のサブカル文脈からのミュシャの世界的再評価の中で、少女マンガの基本スタイルとしてその「線」が取り入れられるプロセスを見てゆく。

19世紀から20世紀へと移り変わる時期は、近世的なスキームが現代的なスキームに変化するパラダイムシフトの時代であった。政治経済においても文化においても、19世紀前半までは18世紀以前の王侯貴族中心の時代が続いていた。19世紀半ば以降産業革命による経済の発展を受けてブルジョワジーなどの上級市民がその担い手となり、市場規模が大きく拡大した。さらに20世紀に入ると一般大衆が政治経済文化全てにおいて中核となる大衆社会の時代に突入した。

音楽や美術といった芸術も、直接大衆にアピールし、マスマーケットを前提として商業的に成立するものへと変わる。そういう意味では、ファインアートとしての純粋芸術の絵画から、商業芸術としてのデザイン、イラストレーションが生まれ出る真っ只中の時代に活躍したミュシャは、その変化を生み出した張本人の一人ということができる。その耽美性の裏には、やはり「大衆」の目が見て取れる。

「大衆」が共感し思いを没入できるものこそが美しいものとなる時代の幕開けである。この時代、音楽においてはストラヴィンスキーが登場し、喜怒哀楽という感情をストレートに表現する音楽が生まれ、大衆の感情を表現するポップミュージックが生まれる契機となる。同じように、大衆が感情を込められる「絵」の起源がミュシャであることが、展示された作品の数々から伝わってくる。

特にサイケデリックアートと結合してミュシャ再評価が進んだ60年代末から70年代初めは、まさにぼくが十代という多感な時期にリアルタイムで体験した時代であり、個人的にも当時の記憶がよみがえってくる。当時のカウンターカルチャーはフラワームーブメントなどのようにアンチ・モダニズム性を持っていたので、現代ではあるがモダニズム以前のテイストを体現していたアール・ヌーボーがもてはやされたのだろう。同時代感覚を持つ人には必見といえる。















18/06

萬画家・石ノ森章太郎展 ボクはダ・ビンチになりたかった
世田谷文学館 芦花公園


世田谷文学館は、世田谷にゆかりのある文人の資料をコレクションする世田谷区立の博物館であるが、映画、音楽、コミックス・アニメーションといったポップアートやサブカル系の作家にスポットライトを当てた企画展においても定評がある。そのテーマへの興味から足を運ぶこともよくあるが、同じ世田谷区といっても端と端、直線距離でも6〜7km、実際の道のりだと10km以上と、かなりの距離がある。

公共交通機関で行くにしても、世田谷線から京王線の普通に乗り換えとなるので、けっこう時間がかかるし、京王線の普通というのは直近の駅から優等列車に乗り換えさせるダイヤを組んでいるので、普通に乗り続けると思いのほか時間がかかることになる。ということで、ある程度時間を空けてから行かなくてはいけないスポットである。まあ世田谷区は政令指定都市並みの90万都市なので、それなりに広いのも確かだが。

今回の展覧会は、1998年に60歳の若さで亡くなってから20年を迎えた、「世界一多作なマンガ家」とギネス認定された石ノ森章太郎氏の回顧展である。その才能も作品も幅広く、創世記からマンガ界を牽引し、今の日本マンガ文化の基礎を築いた一人である石ノ森氏の活躍と作品を振り返ると共に、「石ノ森ワールド」ともいえる各作品に通底する世界観や価値観を浮き彫りにしている。

企画展会場となっている二階の展示室は、三部構成の展示となっている。まず入ってすぐの縦長のスペースは、「第1章ヒーローズコレクション(仮面ライダー)特撮作品原作者として」と題されて、表現者として映画を作りたかった石ノ森氏が、テレビの特撮番組という活躍の場を得て、そのイマジネーションを実写の映像として具体化してゆくプロセスを見せてくれる。漫画家仲間とスタジオゼロを設立し、アニメーション製作に乗り出して以来、映像とどうかかわってきたのか。そしてその映像はどのようにして生まれたのか。

1971年にテレビ番組に先行して講談社の「週刊ぼくらマガジン」にて連載された漫画「仮面ライダー」の第一回生原稿が展示されているが、初期の回に付いては漫画版と番組版とはかなりシンクロしており、あたかも念入りな絵コンテを見るようである。まさにこの時期においては、石ノ森氏の頭の中に浮かんだイマジネーションをそのまま漫画化し同じく映像化したということがよくわかる。実に映像的な絵作りとなっている。

次は今回の展示のメインとも言えるブロック、「第2章ぼくの萬画(サイボーグ009・JUN)-萬画家・詩人・芸術家として」である。石ノ森氏の代表作の一つであり、コミックスでもアニメでも大ヒットした「サイボーグ009」と、作家・アーティスト・表現者としての可能性を追求し、実験的な作品であると同時に極めて私小説的な表現に挑戦した「JUN」という二つの作品を取り上げ、そこに流れる石ノ森氏の生き様や価値観を探る展示となっている。

石ノ森作品はヒットしたものも多く、エンタテインメントとしても上質なのだが、その奥にどうしようもない闇を抱えている。人間の情念というか、業というか、覗き込んでゆくと諸行無常な世界観が垣間見えてしまうのだ。そこに目が行ってしまうと、絶望的に打ちひしがれる。そういえば子供の頃石森氏の漫画を読むと、さっと読み流してしまえば面白いのだが、じっくり頁の裏に見え隠れするどろどろした世界に気付いてしまうと、恐くて仕方なかったことを覚えている。原画を見ていて、そんなことまで思い出してしまった。

最後のブロックは、「第3章石ノ森章太郎による石森章太郎-萬画家・社会企業家として」と題して、自ら「萬画家」と名乗り、ストーリーピクチャー持つ可能性を追求すると共に、日本のマンガ・アニメーション・特撮の地位向上に努め、いまや日本を代表する文化として世界的な人気となる礎を築いた、晩年の多面的な活動に関する展示である。サブカルチャーからメインカルチャーへと変わってていった裏には、彼の功績が大きい。

また、彼の死後10年以上を経て郷里を襲った東日本大震災による津波被害に関しては、石ノ森章太郎氏を記念する博物館である「石ノ森萬画館」も被災したものの、石ノ森氏の存在感やその作品が、被災した人々を励まし心の支えとなることで、復興の大きな支えとなった。ある意味、死後もなお社会的な影響力を持っていると言う意味では、いかにも彼の存在感を象徴する出来事であり、それに関する展示が最後の締めとなっている。

ときわ荘に集った人々が、日本のコミックスやアニメーションの文化をゼロから創り上げ、今の隆盛の発火点となったことはいうまでもない。どんな時代でも、どんな領域でも、それが全くなかった時代に始めて創り上げた先駆者の存在感は余りに大きい。今となっては当たり前になっていることも、誰かがオリジネーターで、自分で思いついて始めたことなのである。文化の原点をまだ遡って触れられるという意味では、貴重なタイミングの展覧会であるといえよう。











18/05

日本橋高島屋と村野藤吾
高島屋史料館TOKYO 日本橋


日本橋高島屋は昨年の新館オープンから、日本橋高島屋ショッピングセンターとなり、百貨店というより個々のテナントの個性が前に出た都市型ショッピングセンターとしてリニューアルされた。百貨店の経営が難しい時代において孤軍奮闘する高島屋としては、自社の持つ成功事例を組み合わせた起死回生の戦略ということができるだろう。そのような新しい試みの一つとして、本館内に「高島屋史料館TOKYO」なる展示室が2019年3月に開設された。

大阪の日本橋にある高島屋東別館の中には、昭和45年より高島屋史料館が開設されている。高島屋が関西における呉服販売、美術品販売において大きなポジションを占めていたことから、明治からの京都画壇の巨匠を中心とした美術品、18世紀の能装束から、百選会・上品会の着物など、歴史的な名品約5,000点を収蔵するとともに、高島屋の歴史を示す各種資料や広告等の現物をコレクションしている。

「高島屋史料館TOKYO」は、この「高島屋史料館」の分館という位置付けで日本橋高島屋SC内に開設された。そのテープカットの展覧会として行われたのが、「日本橋高島屋と村野藤吾」である。高島屋史料館TOKYOの施設は、4階の展示室と5階の元貴賓室のホールということであるが、この展示は4階の展示室で行われている。期間中に開催される講演会・シンポジウムが5階の元貴賓室で行われるということである。

昭和8年に竣工し、今では百貨店建築では初の重要文化財指定を受けている日本橋高島屋本館。現在の姿になるまでには、何度も増築と改装が繰り返されてきている。その道のりを振り返りつつ、中でもとりわけ増築時の設計を担当した村野藤吾氏の活躍にスポットライトを当てた構成となっている。実際の手描きの図面と当時の写真を中心とし、実物資料などもおりまぜた展示となっている。

高島屋史料館TOKYOの展示室自体は、学校の教室に毛が生えた程度のかなり狭い空間である。しかし、なかなか内容は濃い。やはり実際の図面の持つ情報量はものスゴく、見入るといろいろ発見があって引き込まれてしまう。また建築というテーマからすると、タブレットを利用した写真の展示はスペースのワリに盛りだくさんになり、これまたじっくりと読み解くことになってしまう。

まず高島屋の本館は、もともと日本生命が東京支社として建てた「日本生命館」であり、新築時からテナントとして高島屋が入ることを前提に建築されたことに、改めて驚かされる。7階と8階が日本生命のオフィススペースだったということで、なるほどよく見ると6階までの百貨店部分とその上のオフィス部分とでは確かに外観からも違いがある。日本生命は昭和38年まで入っていたということで、その時代に日本橋高島屋に行ったことはあるのだが、さすがに子供にはわからなかった。

最初の建築時にはコンペが行われ、高橋貞次郎氏のプランが選ばれ現在の本館が建築された。この時代のコンペは、構造設計がなされたビルに対し、ファサードのデザインを競うものであった。ファサードのデザインだけやっていればいいのかと思って建築学科に進める理系の学部に入ったのだが、構造計算とか出てきてやる気をなくした私としては、個人的に非常にあこがれる世界である。

最初から順次増築する予定であったらしく、開業5年にして高橋氏の設計で増築計画が立てられ着工したが、地下部分が完成した時点で戦争になり中断。戦後になってから再び増築プランが立てられ、今度は特に関西の百貨店建築で実績のある村野藤吾氏が3度に渡った増築の設計を行った。この時の資料が展示の中心となっている。旧来のイメージを求める日本生命と斬新さを求める高島屋の両者のニーズを満たすユニークな設計となった。

1984年に亡くなった村野藤吾氏の遺品は、現在京都工芸繊維大学資料館が収蔵している。高島屋の担当者が新館建築に伴う再開発の資料として、同館所蔵の高島屋本館関係の図面を探したところ、戦後の増築設計の際に村野氏の手に渡ったと考えられる高橋貞次郎氏のオリジナル設計図や中断された増築計画の設計図が発見され、今回の企画展の実施に繋がったという。なかなか深いストーリーではある。

高島屋の店内を歩くと、確かにエレベーターやエスカレーター、階段といったシャフト類の配置から、何度も増築を重ねて今の姿になったことがわかる。また、6階までと7・8階とで構造が違うことから、上階は別の利用がなされていたこともわかる。しかし、やはり増築を重ねた日本橋三越や新宿伊勢丹に比べると、一つの建物としての統一性に気を配ってきたこともよくわかる。

2ヶ月続いて無料の展示というイレギュラーな展開になってしまったが、今回は小さなスペースの割りにかなりの滞在時間で楽しむことができることもあり、ぜひ取り上げたかった。建築に興味がある人、近現代史が好きな人ならば、充分に楽しめる展覧会である。それに、高島屋本館自体が展示物でもあるのだ。展示を見た後は、館内・館外からその実物をじっくり味わっていただきたい。











18/04

アートかサイエンスか -知られざる四高遺産から
インターメディアテク 丸の内


インターメディアテクはJPタワー内に2013年に開業した、故鳩山邦夫氏の唯一の業績といえる旧中央郵便局のファサードを利用した商業施設「KITTE」の目玉として、日本郵便と東京大学総合博物館が協力して開設した学術文化総合ミュージアムである。開業以来何度か行ったことがあるが、東京大学博物館が所蔵する明治以来の「学術標本」を、博物館やショールーム、イベント展示の第一人者である丹青社のデザインで展示している。

ある意味、あの懐かしい「理科準備室」のラスボスのようなものであり、少年の心を持った大人の男性や、リケ女にはかなり理屈を越えてアピールする何かがある。さらにはレトロでありながら当時の先端科学だったという二面性があり、スチームパンクのような退廃的未来観が好きな人も惹きつける要素がある。決してフェイクではない本物なんだが、ディズニーリゾートのアトラクションの待ち行列のところの見世物とも共通する要素を持っている。

ということで、ここで取り上げる美術館・博物館とはかなり色合いが違う施設ではあるが、非常に興味をそそる企画展をやっていたので、仕事で都心に行くついでに、ちょっと足を運んでみた。「アートかサイエンスか -知られざる四高遺産から」というタイトルからは、これがいったいどういう展覧会なのか判じ物であるが、いろいろな事情から金沢大学資料館と石川県立自然史資料館に収蔵されている、旧制第四高等学校が所蔵していた科学教育・実験用の器具のコレクションの展示である。

欧米においては、自然科学博物館のみでなく科学技術博物館が古くから作られており、科学技術史資料の保存が進められてきた。1980年代以降は日本でも、科学博物館の新館の整備など、近代科学遺産の蓄積・展示が進んできた。しかし科学教育関連の資料については、常に最新の内容にアップデートされる必要があったため古い資料や器具が保存されることは少なく、科学史遺産として充分に認められていなかった。

そういう事情から、「四高」こと金沢の旧制第四高等学校が旧蔵していた科学教育・実験用器具のコレクションは、国内では唯一無二といえるほど充実したものであるが、一部の関係者以外にはその存在がほとんど知られていなかった。この展覧会はその一部ではあるが貴重な収蔵品の現物を展示し、明治の科学の息吹を今に伝えるものである。これらは教育機器であり、当時どういう内容をどのように教えようとしたのかを生々しく今に伝えてくれる。

百年以上前の教材ではあるものの、ぼくの知識の範囲でも、少なくとも見ただけで何の教材かはほぼ全部わかるし、大部分はこれをどうやって実験や授業に使うのかも知っている。教養まで理系のぼくでもそうなのだから、多分昭和30年代生まれの理系出身者であれば、わかって当たり前だろう。これは逆に考えると恐ろしいことで、少なくとも20世紀初頭から1960年代ぐらいまでは、物理学とか理科教育の内容はほとんど一緒だったことの証である。

まあ当時の高校から大学の教養までの科学教育は、産業革命以前にエスタブリッシュされていた古典物理学。古典数学が基本だったし、日本の学校教育、特に科学技術教育は沿う米先進国をベンチマークし「追いつき・追い越す」ことしか念頭になかったので、それで済んだのであろう。もっとも独創性を個人技に任せたツケが回ってきて、80年代以降になって独創的な発見ができる科学者や、独創的な発明ができる技術者が余りいない状態になってしまったのだが。

それはそうなのだが、ぼくらより一回り以上歳下の科学者や技術者だと、これがいったい何なのか、どう使うのかというのは、よほど頭が柔らかいヤツでないとわからないのではないか。ほとんどクイズのようになってしまうだろう。それにしては、それぞれの器具についての解説が全く付いていないのだ。ぼくらかターゲットであるならば、これでかまわないが科学史の伝承という目的から考えると、これでは大きな損失である。

展覧会の企画意図を読むと、「科学器具の奇態な「造形美」へ衆目の注意を喚起することにある。科学的・教育的な意図をもって組み立てられた器具類は、もとより合目的的な性格を有していた。とはいえ、それらがどのような狙いを秘めたものなのか、いまや理解し難いものも少なくない。しかし、ときには理論や学説に拘泥せず、即物的に眺め返す機会があって良いように思う」となっている。が、これでは逃げだぞ。

今副業で大学の講師もしているが、今の若い世代は社会の情報化で情報過多になり、過去のどの時代の情報も容易に手に入るため、歴史的な流れや関係性という視点に疎くなってしまっている。当然同じジャンルの中では、時系列的な因果関係が働いているし、科学においてもその流れの中でいろいろな発明や発見が続けられている。そういう意味では、こういう機会にきっちりと科学史的視点を学べるような整理がなくてはもったいない。

そもそもインターメディアテック自体が、展示している資料のワリに、その解説が極端に少ない。あたかも「価値のわからんヤツは見なくていい」といっているかのようである。そういう態度に権威を感じる人が入るかもしれないが、今の世の中、それでは済まないと思うのだが。なにより折角の貴重で価値ある展示物がもったいないし、フリーキーな見世物になってしまったようでかわいそうだ。まあ、それが東大っぽいといえば、皮肉な意味でそうかもしれないが。











18/03

ル・コルビュジェ 絵画から建築へ-ピュリスムの時代
国立西洋美術館 上野


国立西洋美術館開館60周年記念展として、世界遺産に指定されている国立西洋美術館本館の設計者であるル・コルビュジェにスポットライトを当てた企画展。1920年代後半になって建築家ル・コルビュジェとして名を成す以前の、現代美術家シャルル=エドゥワール・ジャンヌレとして活躍していた、主として1920年代前半のアーティストとしての作品にフォーカスを当てて構成している。

この時代、彼はやはりアーティストのアメデ・オザンファンと組んで、雑誌「エスプリ・ヌーヴォー」を創刊し、当時の現代美術ムーブメントの一つであった「ピュリスム」の旗手となり、その時代を代表するモダンアートの手法であった「キュビズム」のライバルとして活躍していた。今年は、この「ピュリスム」運動が生まれてから100周年にあたっており、ピュリスム誕生百周年の記念展という意味合いも持っている。

ル・コルビュジェが若い頃現代アートのアーティストとして活動していたことは知っていても、その後の建築家としての活躍に比べると、その時代の活動が詳しく語られることは少ない。モダニズム建築の先鋭でありながら、他のモダニズム建築家とは大きく異なる個性のルーツも垣間見れるかもしれない、そのような時代の彼の活動をズームアップする展覧会というのは、大いに興味がそそられるところである。

そもそも「ル・コルビュジェ」というのは、芸術関連だけではなく、文明論、科学論など、現代社会のあらゆる分野を対象としていた「エスプリ・ヌーヴォー」に、建築論に関する記事を書くときの彼のペンネームであった。最終的にはそこが肥大してしまったものの、ピュリスムの時代においては、アーティストであるジャンヌレの「ある一部分」であったことがしのばれる。

ピュリスムにおいては、法則性・規則性を重視し、芸術においても近代的な合理性を追求するスタンスを取っていた。これは建築においても「モデュロール」のようにことさら合理性を重視していたことと合通じる。ル・コルビュジェが合理性を重んじていたことは、ある意味生き様そのものなのかもしれない。その一方で、建築においては近代的なデコラティブさも追及するところが特徴である。

有名な「近代建築の5つの要件」でも、トップに「ピロティ」と「屋上庭園」という、スペースファクターの合理性からは出てこない要件が挙げられている。多分、このやり方によっては矛盾してしまうこの両者を、それこそ「合理的に」両立させることが、彼の建築の目的であり課題であったのだろう。そして建築において、合理的なデコラティブを実現させる方法論を見つけたので、建築を主たる領域としたのだろう。

確かにピュリスム時代のアート作品をみると、近代的な合理性を追求しつつ古典的な美学もその中で実現するかを追及し、それを如何にバランスさせるかを追い求めていたことが感じられる。だからこそ、古典的な美学を全否定した上でバラバラに解体したキュビズムを初期においては「目の敵」にしたのであろう。ところが、途中からキュビズムを評価し接近するようになる。

その時期と建築に力を入れ出す時期とはシンクロしている。趣味としての絵画は生涯描き続けていたということだが、ある種自分の目指す美学が高度に成り立つのは、アートの世界よりも建築の世界であることに気がついてしまったということではないだろうか。ピュリズムは発展的に解消し、それが生み出したものが建築家としてのル・コルビュジェなのだろう。

あれだけ近代的・合理的なモノを志向していたシャルル=エドゥワール・ジャンヌレであれば、未来派のように当時時代の最先端として登場してきた自動車や飛行機のデザイナーとなってもおかしくはないのだが、決してそっちにはいかなかった。それはそっちに行ってしまっては満たされない美学があったからこそであるということが、如実に伝わってくる展覧会である。

まさにル・コルビュジェのミッシングリンクを解き明かすような魅力がある。ル・コルビュジェのファンや、現代建築に興味がある人だけでなく、1920年代の現代美術に興味がある人にとっても、いろいろ発見がある展覧会である。それにしても、美術館自体が出品物の一つになっているというのは、何ともメタなイベントではある。

近代合理的な建築物では、動線を最適化してしまうので、書かれていなくても暗黙の「順路」に従って人の流れができてしまう。ショッピングモールなどは、これを利用して上手く回遊させている。しかし、ル・コルビュジェの設計はここに一矢を報いて、「どういう順で見るべきなのか悩む」ことになってしまう。これこそ、ここで解き明かされたル・コルビュジェからのメッセージなのかもしれない。











18/02

田沼武能写真展 東京わが残像 1948-1964
世田谷美術館 用賀


終戦直後から写真家としての活動を開始し、戦後の日本写真界をリードし第一線で活躍し続けてきた田沼武能氏。今年2019年が生誕90年・写真家生活70年という節目になることから、それを記念して開催される展覧会である。田沼氏の長い現役写真家生活の中から、若さとバイタリティーを活かして最も華々しい活躍をしていた、昭和20年代と30年代にホームグラウンドといえる東京の下町で撮影した写真により構成されている。

写真学校を卒業後、名取洋之助氏のサン・ニュース・フォトス社に入り、木村伊兵衛の助手として写真活動を始めた田沼氏にとっては、自分の故郷でもある東京の下町の生活や人々をライカを使って写真に撮るのは、いわばライフワークのようなもの。そして明治いや江戸時代以来の江戸の生活が残っていたのも、前の東京オリンピックが行われる以前の昭和30年代までである。まさに写真に撮っておくべきものが残っていた時代といえよう。

同じく田沼氏の得意なテーマである「世界の子ども」や「文化人の肖像」に関する個展はこれまでも開催されたことがあるが、「東京下町」をテーマにした大規模な展覧会は実はこれが初めてだという。「昭和」が歴史上の存在になり、2020オリンピック・パラリンピックでレトロブームが起こっている今にふさわしい写真展になったということができる。

全体は4部から構成されている。「第1章 子どもは時代の鏡」は、田沼氏の得意技である「子供」×「下町」という黄金のタッグから生まれた作品である。主として昭和20年代の生活苦の時代、どちらかというと貧しい人々が多かった城東地区で、それでも子供たちが元気に育っていた姿をレンズが捉えている。子供たちの表情のみならず、彼等・彼女等が生活したいた街の雰囲気も含めてフィルムに残っているのが楽しい。

「第2章 下町百景」は、今度は江戸時代から続く情緒と人情があふれる下町の生活を、そこで暮らしている人々の表情を通して捉えた作品である。こちらは一層当時の生活環境が良く捉えられており、いつも言っているように「写真に写ってしまった記録」の重要性を改めて印象付けられる。戦時中も西太平洋の制海権が奪われて空襲が始まった昭和19年からはモノ不足で生活が苦しくなったが、それまでは軍需景気でそれなりに経済は廻っていた。

本当に生活が苦しくなったのは、経済活動が壊滅した戦後の混乱期である。その時期、人々はどう頑張って暮らしていたのかは、なぜか語られない。そこから脱するのは「もはや戦後(の経済混乱期)ではない」と経済白書に書かれた昭和31年を待つ必要があったこの時期のドキュメントとしても、それぞれの写真の語るものは大きい。変に社会的バイアスがかかっていない「明るい」表現なだけに、逆にリアリティーがあふれている。

「第3章 忘れ得ぬ街の貌」は、今度は古くからの東京ではなく、東京タワーが建ち、オリンピックに向かってどんどん変貌していく東京の姿を、時代の変化という客観的な視点から捉えた作品が並ぶ。古いものへのノスタルジアもあったものの、どんどん新しいものが生まれ、世界的なレベルに進化している様子を楽しんでいた当時の人々の視線をリアルタイムで記録している点が、今の視点でレトロを語るのとどう違うかが良くわかるのも、その時代(子供とはいえ)生きていた身としては懐かしい。

最後に「特別展示 世田谷の文化人」と題して、「新潮」「芸術新潮」のカメラマンとして撮影した文学者や芸術家のポートレートの中から、世田谷区に在住し世田谷に縁があった人たちの姿を展示している。作品を知っていると、ポートレートの表情の中からその作風が伝わってくるような感じで、田沼氏の人物撮りの上手さがひしひしと伝わってくる。

天気のすぐれない平日の昼に世田谷美術館に行ったのだが、中高年・シニア層を中心にそこそこの客が入っていた。どちらかというと写真ファンというよりは、昭和20〜30年代に子供時代をすごした高年齢層が、昭和の子供の生活のノスタルジーに浸りに来ている感じではあった。しかし、それぞれの写真が語るものが多いだけに、そういうお客さんもいろいろ思い出すことが多いのではないだろうか。









ミュージアムコレクションV
アフリカ現代美術コレクションのすべて


世田谷美術館2階のギャラリーで同時開催されていた展示会は、館蔵コレクションによるアフリカ現代美術の展示である。世田谷美術館は、1989年にガーナのアーティストであるサカ・アクエ氏の個展を日本で始めて開催して以来、アフリカの現代美術の紹介には特に力を入れている。同時に代表的なアーティストの作品収集にも力をいれており、日本でも有数のアフリカ現代美術コレクションを所蔵している。

今回の展覧会は、それらの館蔵アフリカ現代美術作品を一同に展示することで、現代のアフリカ美術のフロンティアを紹介するものである。館蔵の作品から、サカ・アクエ、アナパ、ソカリ・ダグラス・キャンプ、ムスタファ・ディメ、エル・アナツイ、アブラデ・グローヴァー、アブドゥライ・コナテ、イッサ・サンブ、パスカル・マルチーヌ・タユの9人の作品を紹介している。

これらのアーティストは、皆欧米で芸術の高等教育を受けたエリートだし、現地の美術教育自体もかつて植民地に宗主国だったイギリスやフランスの手法に大きく影響を受けている。そういう意味では、欧米の現代美術の影響がないということはできないのだが、極めて独自性を感じさせる表現手法を頑なにキープしている点は非常に興味を引かれる。まさにこの「民族の心」こそが、植民地支配を脱して独立をもたらしたエネルギー源であり、表現においてもそれは同様の存在であることを力強く感じる。










18/01

フェルメール展
上野の森美術館 上野


産経新聞創刊85周年・フジテレビ開局60周年記念事業ということで、フジ・サンケイの総力で盛り上げている感のあるフェルメール展。いろいろ思うところはあるものの、せっかくまとまってやってくるのだから、ここはやはり見ておくべきだろう。入場時間予約による前売制という珍しいシステムで、当初は連日満員御礼という感じであったが、ここにきて販売状況も入場状況もこなれてきたので、ちょうど仕事で都心に出て、若干時間があまりそうなタイミングで予約を入れておいた。

上野の森美術館が目的地ならば、上野駅も不忍口から出ればすぐである。一般の美術館・博物館はJRの公園口が絶対的に便利だが、メトロの上野駅からも近いというのは楽である。メトロ沿線から行くときには、新橋とか東京とか、比較的乗換が楽な駅で山手線に乗り換えてゆくことも多いだけに、これは助かる。それにしても、むかし「聚楽」と映画館があった、上野の山の端っコの妖しいエリアも、すっかり立て直されてしまい、なんだか上野っぽくない。上野・浅草エリアは、淫猥でないとねえ。

それはさておき、美術館の入り口に向かう。すでに前売りで売り切れる状態ではなくなっているようで、当日券を発売している。流石に当日券の窓口にはそこそこ行列が出来ているが、前売券を持っている人は行列なしでフリーパス状態。これなら中はぎゅうぎゅう詰めということはなさそうだ。場内はちょっと不思議なレイアウトで、通常の出入口は出口専用ゲートとして使用し、脇の事務棟の入り口をエントランスとして使用した動線となっている。

観客にはベタ付けで解説用の受信機とイヤホンを配るというやり方も、ちょっと珍しい。珍しいと言えば、絵に付けられたキャプションは画名と作者だけで、通常付けられている所蔵美術館をはじめとする細かい情報は、これまたベタ付けで配られるミニ解説書に掲載されていて、そっちを見てくれというやり方。そういうのを気にしない一般のお客さんにはいいかもしれないが、そういうものというのを前提にしている美術ファンにはちょっと違和感があるやりかたではあった。

一応こっちはイベントの仕事もやっていたので、美術展ではなく大量動員する大型イベントの運営という意味では、お客さんの流れを一定ペースに誘導することができるので、これはこれで意味があることはわかる。各時間帯の配券数も含めて、解説が流れる時間のペースで客を流してゆけば一定以上の混雑にはならないことを狙っているわけで、運営側としては相当な来場数を想定していたことが伺われる。

平日の昼間だったこともあり、確かに中はそこそこ混んではいたものの、それなりに流れていて、それなりにちゃんと余裕を持って見られた。会場は大きく分けて、通常だと出口側に位置づけられるギャラリーを使用したフェルメールと同時代の17世紀オランダ美術の代表作の紹介と、現存する35点のフェルメールの作品の中から9点を集めたフェルメール作品の展示とに分かれている。br>
17世紀オランダ美術の展示は5部に分かれており、第1章は肖像画を集めた「オランダ人との出会い」、第2章は宗教画を集めた「遠い昔の物語」、第3章は風景画を集めた「戸外の画家たち」、第4章は静物画を集めた「命なきものの美」、第5章は風俗画を集めた「日々の生活」という構成になっている。コンパクトではあるものの、この時代のオランダ美術の特異性は充分に伝わってくる。

他の多くのヨーロッパ諸国の美術が宮廷や貴族がパトロンとなって支えられて発展したのに対し、そのような伝統とは違う文脈で経済が成長したオランダでは、富裕な市民層を中心的な支持者として発達した美術シーンが発達した。それは静物画や風俗画が好まれたことにも表れているし、肖像画や風俗画に登場する人々の肩書や生活の様子にも見て取れる。

一方フェルメール・ルームは今回日本で公開される9点の作品を、一気にまとめて展示するという、何とも贅沢な空間である。こういう展示の仕方にはいろいろ意見もあると思うが、こう並べてみることで発見されることがあることも確かである。もちろん、フェルメール的な世界の凄さは充分伝わってくる。とにかくダイナミックレンジが広いのだ。他の油絵の画家が12ビットぐらいの分解能で描いているのに対し、32ビットぐらいありそうである。

とんでもない目と、それを確実に色調で表現できるワザを持っていたことには改めて驚かされる。しかし問題もある。構図や絵の着想がワンパターンなのだ。多分それが好きだし、一番表現欲を掻き立てられたことは確かなのだろうが、並べてしまうとなんかネタバレしてしまう。これはある意味、ホンモノを並べたからこそはっきりわかったことである。

それはそれで別に問題があるわけではない。料理の写真を撮らせると、シズル感に溢れるいかにもおいしそうなカットに仕上げる、料理専門のブツ撮り写真家がいるが、彼にポートレートを撮らせると結構ふつうになってしまったりする。テクニックの問題ではなく、それ以上の発想の問題なのだ。そういう意味では、作品が少ないのも、自分のワザが映える作品しか描かなかったということがあるのかもしれない。

いつもは展覧会のフライヤーの画像をアップロードしているのだが、この展覧会は何とフライヤーがない。何もないのも寂しいので、件のベタ付けで配っているキャプション・解説入りのガイドブックの画像を上げておく。














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