Gallery of the Week-Dec.98

(1998/12/11)



12/4w
「アルヴァー・アールト-20世紀モダニズムの人間主義」セゾン美術館 池袋

確かに天才的なヒトなんだと思う。技法面でのフォロワーというか、パクりは多いものの、このヒトの本質はそれとは違うところにあるんだと思う。その天才的センスと、建築物とて自然の一部としての共存を図らねばならない北欧の厳しい自然により規定される唯一無二なものが、なまじモダニズムという共通言語の要素を纏ってしまったがゆえに、評価が妙な方向を向いてしまっているような気がしてならない。ぼくは、基本的に建築物の内部や周囲に、緑や自然光を取り入れ、姑息にヒューマン&ネイチャーを取り繕う技法は大嫌いなのだが、そういう勘違いフォロワーを生み出してしまうのも、モダニズム的な理解しやすさを持っているがゆえの危険さだろう。理屈ではなく、もっと本能的なところ、人間の性みたいなどろどろしたところに味があるのを読み取れるかどうかは、もはや受け手の問題かもしれない。
しかし、セゾン美術館もこれでいよいよ最後の展覧会となってしまった。いろいろと印象に残る企画が多かっただけに、感慨深いものがある。その中でも特に思い出深いものをあげるとすれば、そもそもぼくがアートに興味を持つきっかけとなった「フォンタナ展」だろう。「あ、現代アートではこういうのもありなんだ」と同時に、スゴい共感を感じたのがぼくの原体験でもありました。ほんとに長い間ありがとう。


12/3w
「曖昧なる境界-影像としてのアート」O美術館 大崎

写真というテクノロジーの登場が、印象派という新たな絵画表現を生み出すきっかけとなったことは良く知られている。このように五感に関わるテクノロジーは、表現に関わるパラダイムシフトをもたらし、新たな技法をもたらすきっかけとなる。テクノロジーそのものが表現につながるかどうかは別としても、すくなくともそういうインパクトを持つことは確かだ。当然、VR・CG等のディジタル系のヴィジュアルテクノロジーの発達は、それに飽き足らない、新たな表現手法への欲求を生み出す。そういうある種の「宣言」としては、確かにいまこういうテーマを掲げる意味はあるだろう。しかしそれらの作品は、印象派の作品の多くがそうであったように、現状では「アンチのためのアンチ」として、可能性を究めるための習作にとどまっているといわざるを得ない。単に技法へのトライではなく、それでなくては表現できないようなモチベーションと一体化して初めて作品となる。それがない状態で技法におぼれていたのでは、まさにディジタル・アートと同じ穴のむじなになってしまう。技法に酔っているだけのハイテクアートの嫌いなぼくとしては、今後の展開に期待したいところだ。


12/2w
「The Distant Insides」心の奥底を覗いたアーティストたち
ザ・ギンザ アートスペース 銀座

何かと気になる、アウトサイダー・アート。この手のコレクションで知られる、スイスのアール・ブリュット美術館蔵のコレクションを集めた展覧会だ。素朴派なんてのもあるけど、この手の作品はやはりどれだけ現世の煩悩から自由でいられるか、ってところにその価値や意義があると思う。ところが、ここに集められた作品群は、ちっとも「アウトサイド」じゃないんですよ。西欧キリスト教世界からも、西欧近代社会からも外れたところで生きている我々にとっては、決して異端とは見えない。もちろん西欧保守本流でないことはわかるが、彼らにとって本当のアウトサイダーでないからこそ、余裕を持って受け入れられるというのがあるのかもしれない。そういう意味では、急速に文明の多元化が進みつつあるアメリカや、もとよりその存在自体がアウトサイダーである、日本なりアジアなりの目線と、ヨーロッパのそれとには、かなり違いがあるということなのだろう。我々から見た「アウトサイダー・アート」と、西欧的な文脈でのそれとに相当な体温差があるというのを、改めて感じさせてくれた。ちょっと考えこんでしまうモノが大なり。


12/1w
「ラブズ・ボディー -ヌード写真の近現代-」東京都写真美術館 目黒

いつもいっているように、「美人のピンナップガール」なんて概念は虚構の産物でしかない。ジェンダーそのものが社会的な「理屈」の産物であるのと同じように、男は「美人のヌードが好き」というのも、同じく「理屈」だけの世界のことだ。他人の目が効いている間はそれに賛同するかもしれないが、一旦自分の部屋にこもってしまえば、そこから先は本能の世界でしかない。「美人好き」もいるにはいるだろうが、デブ専、ロリコン、フケ専、ホモと同等の、単なる趣味の一形態でしかない。確かに「真実の自分」を表現し続けてきたコンテクストで語られる作品は、(その趣味がない)男性にさえも男性ヌードを魅惑的に見せてくれる。裏のない心を見せているという意味で。だがそれは「こっちが当たり前」なのだ。自分の心に素直なのが当たり前。近代産業社会の規範が崩れてしまった今としては、真実の姿をさらけ出すことに社会的なメッセージを見出すことは難しいのではないかと思う。「若く均整が取れた健康な身体のヌード」(解説パンフレットより)に、バウハウス的な造形美を感じる人はいても、それで欲情する人が一般的ではなくなってしまっているからだ。企画としては、キュレーターの負け(笑)。
しかし、これらの作品群の間にいる会場係員が、熟年男性ばかりというのは、何ともシュールであった。個性のオーラを放つ作品群と、個性もオーラも枯れ果てた生身の人間。これ自体、優れたインスタレーションとして評価したいぐらい。ここまで計算づくなら、キュレーターの勝ち(笑)。


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